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MINDSHOOTING ESSAYS -What's Cool Business!?-

■□■第17号■□■



≪CONSIDERATION≫
21世紀を生き抜く負けないビジネス・その3
〜何も始めないほうがいい。でも一度始めてしまったら、最後までやり通すしかない。
「40年間ほとんど楽しいことはなかった・・・」
/続き


以下のEPISODEが長編にわたってしまいましたので、次号に順延とさせていただきます。


≪EPISODE≫
 ▼Failure
  >file#3-4
   〜出戻りラッシュ・その4


そのまま現地での仕事を継続していたのでは生命の危機にすらさらされる予断を許さない状況にまで追い込まれてしまっていましたから、社長が一カ月後に現地入りするまで待てとの一点張りの会社の意向を無視して、私は郊外の外国人の宿泊も初めてなら日本人を見るのも初めてという、日本で謂えば小奇麗なペンションのような小さなファミリーホテルに身を隠したのです。ここは私が商材の買い付けで以前に近くを訪れた際にたまたま見付けていた休暇時にゆっくりと訪れたいと思っていたところでした。

現地の言葉がまだよく解らなかった私のために、オーナーの親戚で英語が話せるという当時二十歳前だった青年をわざわざ通訳に呼び寄せてくれ、食事も彼ら家族や従業員達と一緒に、また夜な夜な酒盛りをするといったような、それまでの日々をしばし忘れて平和な日々を過ごしていたのです。

それまでの一瞬たりとも気の抜けない、眠っている間すらも小さな物音に過敏に反応したり、夢と現実の区別もつかなくなるほど神経を張り詰めていた日々がまるでうたかたの夢だったかのように、その郊外の小さなファミリーホテルで私は心安らかな日々を過ごすことができたのでした。

髭も剃らず、髪も伸びるに任せ、勧められるがままに彼らが普段身に付けている民俗衣装をまとい、毎日のように彼らの自宅に招かれたり、逆に時々その土地の食材による和食ライクな料理を振舞ったりしつつ、また彼らの仕事を日常的に手伝ったりもするうちにすっかり家族のような関係になってしまい、もう宿泊費すらも受け取ってもらえなくなってしまいました。

何より有難かったのは、何らか訳ありの私の状況を推し量ってくれてのことだったことを後で知るのですが、オーナー以下スタッフ全員が私の身の上など一切の詮索をしないでいてくれたことでした。約一カ月近くもそこに滞在するうちに、もはや私が外国人であることに気付く人は珍しくなるほどにその土地に馴染んでしまいました。

そのうちに私が在籍していた会社の社長が翌週に入国するという情報が入ってきました。彼との膝を突き合わせての直談判は不可欠との判断でしたから、私はゆったりとした時間の流れの中で、それからの事態収拾のための戦略をじっくりと立て始めたのでした。

にわかにそれからの具体的な戦略を立て始めた私の態度や言動の変化を危惧してのことと後に知るのですが、ある日オーナーにわざわざ隣街にあるナイトクラブに誘われました。ナイトクラブとは言っても、そこはまるで日本の田舎の小さな公民館か集会場に舞台を造ってソファーを並べただけといった苦笑してしまうようなところだったのですが・・・。

そこで偶然に出会った彼の友人かと思いきや、これも後に知ったのですが、予想される話題に備えて普段私の通訳をしてくれていた少年の代わりとして彼が事前に手配をしてくれていた彼と同年代の通訳の男性も同席していました。

私をもう息子同然に思ってくれていて、力になれることであればどんなことでもしたいというオーナーの温かい心情が、通訳を介さずとも直接伝わってきて、私は本当に助力を期待してのことではありませんでしたが、一連の経緯の概略と近づきつつある彼らとの別離について通訳を介しつつ彼に率直に伝えたのでした。

しばらく考え込んでいた彼の口をついて出たのは、予想もしえなかった衝撃の事実でしたし、またそれはそれから後何年にもわたって続く彼と彼を通じた大勢の人々との関わりの始まりでもあったのです。

驚いたことに、彼はその当時でこそ郊外の小さなファミリーホテルのオーナーとして静かな余生を送っていましたが、以前はヨーロッパ全土に大きな力を有するマフィアネットワークの一員だったのでした。

一度そうした裏世界に足を踏み入れてしまうと、もはや生涯抜け出せないといったようなことをしばしば聞き及びますが、実際のところは彼のようにすっかりと円満に足を洗って気質(かたぎ)の生活を送る人々も珍しくはないのだそうです。

そのナイトクラブでの話し合いの時までに、詳細までは判らずとも私の身辺調査は済ませていたとのことで、その国における私の切迫した状況については既に彼は知り及んでいたのでした。

そこへ私が率直に具体的な経緯と実情を伝えたことで、彼も完全に合点がいったようでしたし、私への信頼感もさらに増したようでした。

それ以降私が最終的に帰国するまでの数ヶ月の間、彼が手配をしてくれた三人のボディーガードが、時々交替をしながら常時私に付かず離れず護衛をしてくれました。もちろん費用を要した訳ではありません。それも念のための措置で、実際のところは裏社会の力のバランスによる圧力をかけてくれていたようで、それ以前の私の安全を脅かしていた不審な影はすっかりと消えましたし、もう襲われることもまったくありませんでした。

それでも一度必要なものを取りにフラット(ワンフロアーを占めるその国で私が居住していたアパートメント)に戻りましたが、それ以外はずっと彼が手配をしてくれた中心街のホテルに滞在をし、そして入国する社長との直談判のために空港に直接向かうことになったのでした。

ある程度予想はできていたものの、やはり空港での社長との直談判はロビーで立ったままで、ものの数分で決着してしまいました。もともと社長の側に私の進言に耳を傾ける意志があるのであれば、それまでにも電話なりFAXなりでも充分に話し合いはできたはずでしたし・・・。

私の話にはほとんど耳を貸さず、社長はともかく自分の指示どおり動いていればいいという主張に終始するばかりで、まったくといってよいほど会話は成立しませんでした。私ももはや後には引きませんでしたから、最後にはお互いに感情的になってしまい、人前であるにもかかわらず乱闘に発展する寸前といったような険悪な雰囲気でした。そのようにして、私は現地のそれも空港のロビーで正式にその会社を退職することになりました。

その頃には既に私への会社からの送金は止まっていましたし、結局退職金はおろか最後の数ヶ月の給与も支払われず、帰国の際の航空券すらも自費での支払いを余儀なくされてしまいました。帰国後法的手段を講じることも考えましたが、もともと渡航の際にはそれ相応の覚悟をしてのことでしたし、もはや私の多岐にわたる実質被害は甚大で公私の境界も曖昧だったうえ、何よりそれから何年にもわたっての後向きな時を過ごすことなどもう辟易といった気持ちでしたから、そのまま放置してしまいました。

退職した会社に対してはもはや何の未練もありませんでしたし、もう一切関わりたくもありませんでしたから、東京本社にいくらか残していた私物の回収も気の置けない友人に依頼しました。

しかし骨を埋めるというほどのものではありませんでしたが、仕事の性格からいってもその国に最低でも数年、自らの覚悟のうえでは私は10年前後の駐在を想定していました。それにその国のような発展途上国においては、物事はなかなかビジネスライクに進めていけるものではありませんし、自ずと公私の境も曖昧にならざるをえず、ビジネス以前に私自身の人間性自体が受け入れられない限りは信頼関係の構築もままならないのが実情でした。そんな背景から、退職した会社の現地責任者としてはもとより、私個人としてもその国とその国の人々と既に深く関わり過ぎてしまっていて、会社を辞めたからもう後は知らないと放置して帰国してしまえる状況ではありませんでした。

もちろん万国共通一般常識の基準においては、それも本来致し方ないこととしてしまうべきだったのかもしれませんが、そうできないところが良きにも悪しきにもいつもどこでも変わらない私の人間性なのでした。

私が在籍していた会社自体が、業界ではともかく世間一般に名が通っているような一流企業ではありませんでしたし、進めている案件自体も必ずしも着手段階で正式に依頼を受けていたわけではなく、着手してある程度まとめあげてからクライアントに営業をかけるケースも少なくはありませんでした。

何より最大の強みは、まだ他に競合相手がなかったこと、それに卓越した社長の営業力でした。中堅証券会社の営業常時全国トップのポジションから起業したという社長の営業手法は、まさに何でもありの手段を選ばぬ貪欲なもので、狙った先からはほぼ確実に受注してしまうだけの力量を有していました。

そんな背景から、私も現地において必然的に業者に対しても発注を前提に先行しての関係構築や実質的なアクションを開始していくようなサイクルになりがちでしたから、前述のような経緯で現地で突然の退職を余儀なくされてしまった段階においても、既にそのような先行して進めていた謂わゆる正式取り引き予定先といったような現地でのコネクションが存在していました。

それらは会社公認とでもいうのでしょうか、少なくとも稟議による直属の上司から社長に至る正式な社内における承認をとっていた先にあたるわけですが、前述の私の生命すら脅かしていたような現地ビシネスパートナーをはじめ、トップダウン的にパートナーシップを強要されていた先の代替先として、私が独断で調査選択し並行して関係づくりを進めていたような会社に報告をあげていない先もありましたから、私の基準における事態は深刻さを極めていたのです。

なかでも私が最も気にかけていたのは、私自身が世界最大手の監査法人からヘッドハントをした現地国籍の女性のことでした。

私は赴任時より現地語と英語に堪能な心から信頼できるアシスタントがただ一人いてくれたらと、ずっと探し続けてきていました。様々な人々の紹介などで何度となく面談を繰り返してきていたのですが、なかなか意中の人材に巡りあうことができずにいたのです。

そうこうしているうちに一年という月日が過ぎ去ってしまい、百名近くもの個別の面談をしてきていましたから、もう妥協ができなくなってしまい、もうアシスタントなしですべて私自身で対処していく覚悟をしてあきらめかけていた頃に、現地の取り引き先の一つである家具制作販売会社の社長を通して彼女と出会うことができたのです。


第18号▼Failure>file#3-5
   〜出戻りラッシュ・その5
                              に続く

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