DAILY SHORT COLUMNS - Daily Business -

 
2003.11.15 出戻りラッシュVol.25

そんな経緯で私は、不本意ながらも現地から依願退職願を会社に提出したのですが、それを受理しようとしない会社とのバト ルは次の局面に移っていったのでした。

そのまま現地での仕事を継続していたのでは生命の危機にすらさらされる予断を許さない状況にまで追い込まれてしまっていましたから、社長が一カ月後に現地入りするまで待てとの一点張りの会社の意向を無視して、私は郊外の外国人の宿泊も初めてなら日本人を見るのも初めてという、日本で謂えば小奇麗なペンションのような小さなファミリーホテルに身を隠したのです。ここは私が商材の買い付けで以前に近くを訪れた際にたまたま見付けていた休暇時にゆっくりと訪れたいと思っていたところでした。

現地の言葉がまだよく解らなかった私のために、オーナーの親戚で英語が話せるという当時二十歳前だった青年をわざわざ通訳に呼び寄せてくれ、食事も彼ら家族や従業員達と一緒に、また夜な夜な酒盛りをするといったような、それまでの日々をしばし忘れて平和な日々を過ごしていたのです。(続く)


2003.11.13

「40年間ほとんど楽しいことはなかった・・・」Vol.33

目的意識にすり替えや誤魔化しがあればもはや問題外の基準ですが、自らの内なる心の声に照らして妥協があっても、やはりそれはいずれ本末転倒につながっていくことになります。それを認めようと認めまいと、また実践しようと実践しまいと、人は自らの心の声に順がわずしては、真の充実感や幸福感を得ることはできないのです。

目的意識の設定に錯覚があったような場合には、必要に応じてそれまでの経緯の清算ができさえすれば、改めて目的の設定をし直せばよいのですし、目的が見つからないような場合には、その時点における目の前の課題に全力で取り組んでいさえすればよいのです。

誤った目的意識に固執して軌道修正できない堂々巡りから脱却できずにいることは愚かしいことですが、あらためて設定し直そうという目的の方こそが誤りであったり、あるいは現状の目的からの単なる逃避に終わらないようにするためにも、常に自らの内なる心の声に正対し対話を続けていくことが何より肝要ですし、たとえ誤りであったとしても、その都度その時点における目的を達成していきつつ、その次の新たな目的を設定していくことができればさらに理想的です。

また、目的を設定できないことは悪いことでも何でもないごく自然な一つの状況なのですから、引け目を感じてしまったりする必要性はまったくありません。但し、自力で目的を見つけられない状況においては、第三者や社会からなどの環境的必然性による目の前の課題に全身全霊を傾けていくことが肝要です。自らが心から望むことではないのだからなどと斜に構えるような甘えた姿勢では、内なる心の声と対話していくことはおろか心の声の存在に気付くことすらも生涯できようはずもありません。(続く)


2003.11.11

「40年間ほとんど楽しいことはなかった・・・」Vol.32

内なる心の声に妥協なく順ったうえで自らの明確な目的意識を持ち得た、そしてさらにいかなる障害が立ちはだかろうともその目的の具現化を目指して諦めないで努力を重ねていける人々は、少なくともコンセプトデザイナーとしての私のビジネスのうえでは関わり合う必然性もなければ、元々人として何らの問題もありはしないのです。

生活や仕事の在り様(=コンセプト)は、本来自ら創り上げていくべきものなのですから、何らかの視点で私に必要性を感じるということは、元々の目的意識自体、あるいはその目的の具現化のための方法論の設定のいずれかと、内なる心の声との間にズレが生じている顕れに他なりません。

目的の具現化には、相応の時間と手間がかかって当然なのですし、その目的が崇高なものであればあるほどその具現化に要する時間と手間は増大していきます。その目的の具現化の過程で様々な苦難に直面している段階においても、同情や中傷といった第三者の客体的視点がいかなるものであろうと、自らの内なる心の声という絶対的視点が強固であれば、最終的に負の影響を受けてしまうことはありません。(続く)


2003.11.04

出戻りラッシュVol.24

日中仕事の時間帯でも何度か突然加速してくる車に危うく跳ねられそうになったり、帰宅途中にも明らかに待ち伏せをしていたと思われる暴漢に襲われたりと、それも明らかに彼等は一般人気質(かたぎ)の風体(ふうてい)ではありませんでしたし、とても偶然と片付けてしまえる状況ではありませんでした。

私はいざという時のとっさの反射神経には自信がありましたし、護身的武術の心得もありましたから、何とか事無きをえましたが、それからはもう悠長に構えていられるほどの覚悟は持ち合わせていませんでした。日本の社長をはじめとする重役達との連日にわたるバトルを展開しつつも、会社が私が陥っている事態の認識ができず費用を認めないので、やむおえず私設ボディーガードまで雇わざるをえなくなるほどの状況になってしまいました。

なるべく在社時間をなくすように予定を調整しつつ、その人物とのビジネスパートナーシップの解消を最優先課題としてあらゆる努力を重ねましたが、結局すべて徒労に終ってしまいました。すでにその国に国内大手老舗百貨店を誘致せんとする大型案件が進行してしまっており、もはや事実上手遅れの状況だったのです。私の在籍していたその会社は何よりも利益最優先、そのためには手段を選ばない企業であったことを、またそのことがその現地ビジネスパートナー選択にももともと大きく影響をしていたという事実を、その時に私はまざまざと思い知らされてしまったのでした。(続く)


2003.11.02

出戻りラッシュVol.23

その後また現地法人の設立準備の過程で法律が改正されて外資100%の現地法人の設立も可能になりましたので、私は当時在籍していた会社の社長にその人物とのパートナーシップの解消を強く進言したのですが、その人物に既に深く傾倒してしまっていた社長に却下されてしまいました。

時折ふざけて常時携行している拳銃を私に突き付けるような人物でしたし、もちろんそればかりではありませんが、私はその人物にまったく信頼を寄せることができなかったのです。

やくざでもマフィアでもないのですし、銃を常時手放さないような人物と仕事をする気にはどうしてもなれませんでしたし、何よりその人物には事業家としての資質など皆無でしたから、私も社長を説き伏せる努力をあきらめずに続けていたのです。

そのうちにそうした私の動きがその人物に察知されることとなり、私に身の危険が及ぶようになりました。(続く)


2003.11.01

出戻りラッシュVol.22

実際のところ私が進出前のリサーチの段階で初めて渡航した頃には、まだその国は謂わゆる鎖国に近いような状況で、観光入国はできても空港の免税店以外では食料品や酒類、煙草すらも外国産のものは一切入手することができませんでした。

国民も相応な事情がなければ出国のビザもなかなかおりませんでしたし、外国からの郵便物も厳しい検閲を受け、外国製品の持ち込みなど事実上不可能だったのです。

外資企業といえば、そもそも国交上必要な国賓が宿泊するためと言っても過言ではないヒルトンとシェラトンホテル以外には皆無で、商社はおろか銀行すらもまだありませんでしたし、私達はほぼ民間外資第一号として大手商社や銀行とほぼ同時に参入したような状況でした。

それでもまだ外資100%の現地法人の設立はできませんでしたから、必然的に現地のビジネスパートナーが不可欠でした。そこで当時まだ国家予算の5割以上が軍事予算に回る状況下、軍部の顔役的な存在であったあるビジネスパートナーが選ばれたのでした。(続く)