DAILY SHORT COLUMNS - Daily Business -

 
2004.01.28 出戻りラッシュVol.36

先進諸国に留学させることが常識とはいえども、子息子女達に相応な学力が必ずしも伴うわけではありませんから、その多くは多額な寄付金などで入学できるようななるべく聞こえの良い大学に入るとか、無試験の音楽や美術などに関連した専門学校に入るのが常となっているようでした。

帰国すれば親の七光りで、正規には就職が困難な一流会社に就職するか、よほど箸にも棒にもかからない場合には親族経営の会社の相応なポジションに収まってしまったりするわけです。式典やパーティーの席などでそうした連中とも談笑したりする場面も多かったのですが、まさに見栄と虚勢に終始するばかりの木偶(でく)揃い、それはもう私には退屈と苦痛の極みでしかありませんでした。

そこに来るとその二組の夫婦は、それぞれの本質的な人格はともかくとして、4人ともが実力でその大学に入学卒業し、また家具メーカーの箱入り娘を除けばまたそれぞれの実力で一流会社への就職も果たした力量は備えているわけですし、インターナショナルな知識や経験による彼らとの話題からは、私も様々な刺激を受けることができたのです。(続く)


2004.01.27

出戻りラッシュVol.35

当時発展途上のその国における大学への進学率はまだ3%前後に過ぎず、そんな状況の下で世界的水準でも難関校であるそのカリフォルニアの大学に留学するなどということは、ほんのごくごく少数の人に限られた特別なケースだったといえます。

その国への輸入が解禁される数年前に、既にその国からの輸出は解禁されていましたから、もともと自給率も100%ですべての食材を国内で賄い、豊富な地下資源にも恵まれ、そして脈々と長い歴史の中で培ってきた人的技術、そして国民的に勤勉な質の高い労働力が欧州においてはかねてより高く評価され、その国に外貨を落とす外国企業は引く手あまたな状況でした。

そして何より物価の水準の低廉さから生まれてくる内外価格差により、そうした一般輸出業に携わる一部の特権階級は、莫大な富とあいまっての強大な既得権を得て、事実上その国の政財界を掌握していたのでした。

私が在籍していた会社のその国への進出上関わり合うのもこうした極端な既得権達でしたが、彼らの多くにとっては自国と一般国民は搾取の対象でしかなく、彼らのほとんどは豊かな先進隣国に事実上居を構えて、自国の桁外れな邸宅はまさに別荘感覚で使用するというスタイルが一般的でした。

急激な経済発展には必ず伴うインフレの影響をまともに受ける自国の通貨保有を最小限に留め、財産のほとんどをUSDなどの世界的に安定した外貨で形成するという、皆一様に右に倣えの暮らし振りで、必然的に子息子女達の教育も先進諸国に留学させることが常識化していたのです。(続く)


2004.01.24

出戻りラッシュVol.34

彼女は、ニューヨークで生まれ幼少期を過ごしたので、英語はネイティブでしたし、帰国して高校までは祖国で暮らしたので、その国の言語や文化にももちろん通じてもいました。

その後アメリカ西海岸の今某議員の学歴詐称で話題のカリフォルニアの大学で留学生活を過ごしたのですが、そこで彼ら夫婦とも同級生として出会うのです。

その同級生の二人が後に結婚したわけで、さらにフランス人の婿社長が卒業後フランスに帰国して就職した銀行の同僚と彼女がその後結婚することになり、その同僚の彼女の夫は家族がスイスで暮らしているためスイスとその国の二重国籍を、そして彼女はアメリカ、スイスとその国の三重国籍を有していたのです。

日本の常識では理解しづらいのですが、彼女は三つのパスポートを夫は二つを目的に応じて使い分けていましたし、ドイツ語とフランス語もこなせるのです。

私は英語がやっとでしたが、その二組の夫婦が英語とフランス語とその国の言葉をランダムにお互いに合わせて使い分けつつコミュニケーションをはかる状況は、慣れてしまうまではあまり居心地の良いものではありませんでした。

彼女は、大学を卒業すると、帰国はせずにそのままイギリス・ロンドンに渡り、世界最大手の会計監査法人に就職します。そこでイギリスとアメリカを行き来しながらキャリアを積み、やがてその国の新設ブランチに転属願いを出して帰国していたところを、私はそこから彼女をヘッドハントすることになったのでした。(続く)


2004.01.22

出戻りラッシュVol.33

そのフランス人社長とのみならず、彼のワイフ、というよりも謂わゆる完全なかかあ天下の夫婦でしたし、立場は副社長であっても会社の実権も彼のワイフが掌握していましたから、彼女と彼女の婿さんというべきなのでしょうか、いずれにせよ彼女達夫婦と様々なプライベートな場面を共有していたのです。その折に触れて私が一人ではどうしてもバランスがとれないこともあって、私の彼女候補を紹介すると言っては、二人は毎回に近く様々な女性を連れ立ってきていました。

当時私には日本に彼女がいましたし、面倒なので既婚で単身赴任であると伝えもしたのですが、もともと性に奔放な人達でしたからそれはそれということで完全に無視されてしまっていました。

当時私は少しでもビジネスに関係する女性達とは、特別な関係を持たないようにするという主義でしたから、その場その場を臨機応変にやり過ごしていたのですが、それを私が気に入った女性がいないのだと思い込んでしまった二人が次々と連れてきた女性達、特にその内のとうとう私の彼女として周囲に公認されてしまうことになるある女性との顛末は、またちょっとした物語になってしまいそうですので、また別のシリーズとして触れていきたいと思います。

その一連の紹介攻撃をかわすためというわけでもなかったのですが、連れてこられた女性達が皆知的美人揃いだったこともあり、オフィシャルにアシスタント候補の紹介を依頼したのです。そして二人が同席しないオフィシャルな面談の場に現れたのが、私自身が世界最大手の監査法人からヘッドハントをすることになる現地国籍のその女性だったのです。(続く)


2004.01.20

出戻りラッシュVol.32

なかでも私が最も気にかけていたのは、私自身が世界最大手の監査法人からヘッドハントをした現地国籍の女性のことでした。

私は赴任時より現地語と英語に堪能な心から信頼できるアシスタントがただ一人いてくれたらと、ずっと探し続けてきていました。様々な人々の紹介などで何度となく面談を繰り返してきていたのですが、なかなか意中の人材に巡りあうことができずにいたのです。

そうこうしているうちに一年という月日が過ぎ去ってしまい、百名近くもの個別の面談をしてきていましたから、もう妥協ができなくなってしまい、もうアシスタントなしですべて私自身で対処していく覚悟をしてあきらめかけていた頃に、現地の取り引き先の一つ
である家具制作販売会社の社長を通して彼女と出会うことができたのです。

その家具制作販売会社の創業者であり唯一のデザイナーであった社長が当時亡くなり、その会社で修行をしていた彼が新社長に就任することになりました。彼はフランス人なのですが、社長の娘とアメリカに留学時代に知り合い、一旦はフランスで銀行員になった後、彼女との国際結婚によりその国に帰化して婿養子に入ったという経歴の持ち主で、私とはホテルのサウナで知り合い、毎週日曜の午後にサウナで一緒になっては食事やお酒を共にする仲になっていきました。(続く)


2004.01.09

出戻りラッシュVol.31

私が在籍していた会社自体が、業界ではともかく世間一般に名が通っているような一流企業ではありませんでしたし、進めている案件自体も必ずしも着手段階で正式に依頼を受けていたわけではなく、着手してある程度まとめあげてからクライアントに営業をかけるケースも少なくはありませんでした。

何より最大の強みは、まだ他に競合相手がなかったこと、それに卓越した社長の営業力でした。中堅証券会社の営業常時全国トップのポジションから起業したという社長の営業手法は、まさに何でもありの手段を選ばぬ貪欲なもので、狙った先からはほぼ確実に受注してしまうだけの力量を有していました。

そんな背景から、私も現地において必然的に業者に対しても発注を前提に先行しての関係構築や実質的なアクションを開始していくようなサイクルになりがちでしたから、前述のような経緯で現地で突然の退職を余儀なくされてしまった段階においても、既にそのような先行して進めていた謂わゆる正式取り引き予定先といったような現地でのコネクションが存在していました。

それらは会社公認とでもいうのでしょうか、少なくとも稟議による直属の上司から社長に至る正式な社内における承認をとっていた先にあたるわけですが、前述の私の生命すら脅かしていたような現地ビシネスパートナーをはじめ、トップダウン的にパートナーシップを強要されていた先の代替先として、私が独断で調査選択し並行して関係づくりを進めていたような会社に報告をあげていない先もありましたから、私の基準における事態は深刻さを極めていたのです。(続く)


2004.01.03


出戻りラッシュVol.30

退職した会社に対してはもはや何の未練もありませんでしたし、もう一切関わりたくもありませんでしたから、東京本社にいくらか残していた私物の回収も気の置けない友人に依頼しました。

しかし骨を埋めるというほどのものではありませんでしたが、仕事の性格からいってもその国に最低でも数年、自らの覚悟のうえでは私は10年前後の駐在を想定していました。それにその国のような発展途上国においては、物事はなかなかビジネスライクに進めていけるものではありませんし、自ずと公私の境も曖昧にならざるをえず、ビジネス以前に私自身の人間性自体が受け入れられない限りは信頼関係の構築もままならないのが実情でした。そんな背景から、退職した会社の現地責任者としてはもとより、私個人としてもその国とその国の人々と既に深く関わり過ぎてしまっていて、会社を辞めたからもう後は知らないと放置して帰国してしまえる状況ではありませんでした。

もちろん万国共通一般常識の基準においては、それも本来致し方ないこととしてしまうべきだったのかもしれませんが、そうできないところが良きにも悪しきにもいつもどこでも変わらない私の人間性なのでした。(続く)