DAILY SHORT COLUMNS - Daily Life - |
2001.10.29 |
ささやかなプライド Vol.20 先にまず体制ありき、そしてその制約された体制下の環境において、私達は利用される側でなく、利用する側のグループに、そしてその中でも少しでも上位の立場に身を置くために、幼い頃から競争社会に生きることを余儀なくされ、そして慣らされてしまい、いつの間にかその本末転倒の状況にも疑問すら感じなくなってしまっているのです。 そしてその競争に勝ち残り、既得権に満ちたごく少数の社会的勝者のポストを手中にした者達は、それにしがみついて決して放そうとはしませんし、そのポストを脅かす台頭してくる新興勢力に対しては、結束して排他的な圧力を加えようとします。 先進諸国の私達がカネとモノに支配された経済至上主義的な20世紀は過ぎ去り、私達は個人尊重と国際的協調の21世紀を迎えています。 21世紀は、もはや一人勝ちは世界の均衡が許さない、持たざることがクールな時代です。これまでのように、富裕な人達が尊重される時代は終焉を迎え、やがて彼らは国際社会から疎外され、否定される恥ずべき存在へと次第に変遷していくことでしょう。(続く) |
2001.10.23 |
ささやかなプライド Vol.19 家族といえども、もともとはアカの他人であった男女が結びつくことによって始まり、子供が生まれ、その子供がまた他人と結びつくことによって、家系が受け継がれて数も増加していきます。 アメリカ合衆国がその名のとおり好例ですが、例え国家といえども、もともとは異なった民族が結びつくことによって成立してしまうのです。 重要なのは、国家でも社会でも組織でも家族でもありません。世界中の私達一人一人の個人というかけがえのない存在が最も重要なのであって、国家をはじめとする私達を取り巻く体制の本来の在り様とは、私達一人一人の個人の幸せのために構成され、そしてその在り様も変遷していくべきものなのです。ところが、体制の変化なき存続のために、私達一人一人の存在が犠牲になるという本末転倒の状況が、残念なことに現状における国際社会の実情なのです。(続く) |
2001.10.20 |
ささやかなプライド Vol.18 カネやモノに対して執着心の強い人もいればそうでない人も、仕事に没頭したい人もいれば働くことが好きでない人もいるわけですから、この社会において私達一人一人が、自らの価値観や立場などそれぞれの事情に合わせて、その時々の自らの在り様を選択できたとしたならばどうでしょう。 もちろんそれ以前に、前述のような人としての最低限必要な条件は、世界の人々全員が享受できているという前提においてのことであることは言うまでもありません。 世界の共通の常識あるいは良識といっても過言ではない、私達のほとんど誰もその真偽を疑わないことの一つが、家族あるいは民族意識です。 家族を護る、民族を護る、そして国家を護るといった大儀名文のもとに、様々な局面における私達の他者に対しての排他意識が、多くの国際社会問題を生み出し、そしてそれらを増長していく温床となっていることに気が付いている人達が、どれほど世界に存在しているでしょうか。(続く) |
2001.10.17 |
ささやかなプライド Vol.17 そして仮に私達と立場が逆転した彼らが、現状の私達同様に、自分達さえよければという発想と言動に支配されるとしたならば、また新たに彼らに利用され搾取される側の逆襲をいずれ受けることとなり、人類は決して争いのスパイラルから脱却することができず、永遠に同じ過ちを繰り返し続けることとなってしまいます。 私は例えば世界の経済水準を均一化すべきであるとか、貧富の格差を解消すべきであるとか、そうした非現実的な主張をしたいわけではありません。重要なのは、役割分担意識です。たとえ、利用する側に立とうと、利用される側に立とうと、お互いがその自らの立場と役割を正確に認識し、納得をしたうえでのことであるならば、事態はまったく異なるものになります。(続く) |
2001.10.16 |
ささやかなプライド Vol.16 一動物とさほど離れていないかのような生活を強いられている貧困諸国の人達に対して、彼らが生への本能と欲望に忠実に生きる在り様を、どうして私達は否定することができるでしょうか。 私達の社会的強者としてのまた自由競争の勝者としての論理、あるいは社会の規範が、どうして彼らに通用するでしょうか。そうした根源的な世界の貧困問題を解決していくことなくして、私達はどうして世界平和を謳うことができるでしょうか。そして何より、どうして彼ら自身が自らの貧困問題を解消していくことができるでしょうか。それが可能なのは、強者勝者としての私達からの働きかけなくしては、彼らはスタート地点に立つことすらもままならないのです。 利用される側は圧倒的多数です。すでに搾取され続けてきた彼らの逆襲は始まっていますし、私達が自らの国際人としての立場や役割を認識し、これまでの言動を改めていかない限り、私達が彼らによって滅ぼされる日は、近い将来必ずやってきます。それはこれまでの人類の歴史が証明しているところです。(続く) |
2001.10.13 |
ささやかなプライド Vol.15 それぞれ与えられた才能や能力、あるいは生活環境といったある意味先天的な要素においてはもちろんのこと、またどの程度の努力をするのかという後天的な要素次第で、人の人生は大きく変わっていきます。人は平等ではあっても、決して同じではないのです。 私達のように豊かな日本に生まれるのも、またその日の食にも事欠くような貧困な国に生まれるのも、運不運以外の何物でもありませんし、また努力さえすれば様々な可能性に満ちた私達と、努力以前に最低限の教育を受ける環境にすら恵まれない人達とが、そもそも同じ土俵に立てるはずもないのです。 人が人として生きるためには、最低限の衣食住環境、それにはもちろん医療など生活に不可欠な環境も含まれます。また教育を受ける環境、そして労働環境は不可欠なのです。ところが、それら人としての最低限の環境を有する私達は、世界全体においてはごく少数グループに過ぎないのです。貧困、それは諸悪の根源要素の一つですし、人は生きていくためであればどんなことでもするものです。(続く) |
2001.10.12 |
ささやかなプライド Vol.14 残念なことですが、現状の私達の(国際)社会は、一部の社会的強者と競争の勝者が、自分達の立場と既得権を擁護する視点によって成立しているに過ぎません。 人が二人よれば、そこに上下関係が生まれます。利用する者とされる者です。人が大勢集まっても同様に、利用するグループとされるグループに分かれるだけのことです。そして大抵の場合、利用する側はほんの少数で、利用される側は圧倒的多数であるというのが、世界のどこの国においても、またいつの時代にも共通した典型的構図であり、私達人類はこれまでの歴史において、それを営々と懲りずに繰り返し続けてきているのです。 人は誰しも平等である、こんな発言をしても、大抵の人達からは理想的建前論と一笑されてしまいます。しかし、果たして本当にそうなのでしょうか。もしそうであるなら、現存の社会の規範も仕組みも、同様に単なる理想的建前に過ぎないわけですから、利己的な生き方はもちろん、欺瞞も搾取も、犯罪や戦争も、何一つとして否定できなくなってしまいます。(続く) |
2001.10.10 |
ささやかなプライド Vol.13 人も人である以前に一動物に過ぎないのですから、人が本能や欲望に支配された一動物としての基準から離れて人であろうとするためには、そしてまた人としての私達が住む社会を豊かで平和なものにしていくためには、私達一人一人がささやかなプライドを蓄積しつつ、まずは自らの存在に対する自尊心を培い、そして他者の存在をも尊重していくことができるようになることが不可欠です。 そうした自らと他者の相互尊重の前提により私達の社会の規範を創り上げ、すべての人達の存在とその在り様が尊重されることは、人が人として生活していくための基盤であると言えます。 公平かつ公正で、社会的弱者や自由競争の敗者を救済しようとする発想を私達一人一人がごく当然のこととして有するようになり、そしてその実際の具体的な仕組みを構築していくためには、教育や法律などといった社会を構成するすべての要素を含めて、総合的かつ根源的な発想の転換による構造的な改革が不可避であることは否定できません。(続く) |
2001.10.05 |
ささやかなプライド Vol.12 人間とは、もともとは様々な欲望に支配された動物です。 生まれた時から野性動物に育てられれば、ほとんど野性動物同様に成長するわけですし、実際に何年か前にそうした子供が発見されるという事件もありました。 そんな極端な例を持ち出さずとも、私達がもともとどこから来たのかという人としての存在の本質の片鱗には、幼い子供達を観察したり、私達自身の幼い頃の在り様を想い起こしてみることで触れることができます。また、私達が最終的にどこに行こうとしているのかについても、余命いくばくもない老人の在り様を観察したり、先人達の死の瞬間やその前後に立ち会うことで伺い知ることができます。 何らの理性も持ち合わせず、自らの本能と欲望に100%忠実な言動に終始する幼少期や、心身ともに朽ち果てて、まさに死を迎えんとする老人、あるいはまた精神に異常をきたし、それまでの記憶や人格を失ってしまったような人達を観察したりすることから、本来人は如何に利己的で、怠惰で、我侭で、そして残酷であるのかということがよく理解できます。(続く) |