DAILY SHORT COLUMNS - Daily Life -

 

2002.07.31

ささやかなプライド Vol.23

しかし、それができたとしてもまだ最低限の自らの在り様への納得と尊重という、そして第三者の在り様に対しても否定はしないというだけの自己完結的な基準に過ぎません。自らへの満足度を高めていくためにも、そしてさらにまたその満足の度合いを飛躍的に高めていくためにも、第三者とのそして社会との関わりにおいて自らの在り様と第三者の在り様の間で、自己の主張という権利と第三者の許容という義務のバランスを調整していくこと、それが公平かつ公正な社会生活を営む根源的な発想であるといえます。

その権利と義務のバランスにおいて、自己主張という権利ばかりを先行してしまえば第三者に自らの在り様を許容されませんし、また第三者の許容ばかりが先行して自らの相応な主張が伴わなければストレスや実際の抑圧となってしまいます。お互いの理解と納得のないところに公平かつ公平な、そして秩序ある社会は決して成立しえないのですから・・・。(続く)


2002.07.30

ささやかなプライド Vol.22

つまらない常識に因われず、他人の目を気にしなければ、人は誰でも簡単に様々な束縛から解放され自由になれます。自由とは、限りなく自分自身に束縛されることです。自らによる束縛の度合いが大きければ大きいほど、自由の度合いも大きくなります。

この常識が、実はとても厄介な曲者なのです。常識はその位置付けや距離のとリ方を誤まると、私達をネガティブなスパイラルに陥れます。基本的には様々な異なる人格と価値観を持ったすべての人達にとっての共通項であるはずの常識も、自らの価値観に沿った人格形成以前に囚われ過ぎてしまえば、私達の自分探しの旅をはるか横道に逸らしてしまいますし、また、私達が時勢の変化に追い付いていけずに陳腐化したり現状にそぐわなくなったような事柄を見分けられなければ、かえって害にもなりかねません。

まずは何より自らが納得でき愛することのできる、そして第三者に尊重されるべき人格の形成が最優先の課題ですし、それができて始めて自らの絶対的価値基準に基づき、他者への依存従属心を棄て去り、自らの本来の在り様を認識することができるスタート地点に立つことができます。(続く)


2002.07.24

巡る巡る・・・ Vol.14

自らを救い満たすことができる唯一のもの、それは自らの絶対的価値基準なのです。他の何物にも左右されず、あるがままの自分自身を許容し愛しむことです。

すべての人は、自らの尊厳に基づくあるがままの自らの存在をあるがままに許容される権利を有しています。反面同様に、他人の尊厳といかなる在り様をも許容すべき義務も有しているのは当然のことです。そしてもしもすべての人がこの社会生活における根源的ルールを遵守することができたとしたならば、この世界からすべての争いごとは消失してしまうことでしょう。

しかし、その権利を主張していくことは決して容易なことではありませんし、その権利を主張できない人が他人の同じ権利を許容する義務を果たせるはずもありません。故に世界は争いごとで満ち満ちてしまうことになります。(続く)


2002.07.18

A Happy Birthday To Me! Vol.2

直感と純朴な視点から十代後半の頃までに猫いた空想の世界は、結果的に限りなくその後の現実の世界の本質的部分を見通していましたし、その後の様々な経験はそれまでの推測を日々確信に変えていく確認の過程でしたから、私は環境に順応してその都度自らを変えていく必然性も感じませんでした。

どこまでも果てしなく続く線路をゆっくりと静かに走る電車の旅を、私はこれからも永々と続けていくことと思います。以前は私がどこを目指しているのかすらも考える余裕もない程の急行列車の旅でしたし、途中下車をしての長い道草も随分としたものでしたが、この頃では終点である目的地がどこであってそしてどこにあるのかも日々明確になってきましたし、慌てずゆっくりと鈍行電車に揺られる旅を続ける毎日です。


2002.07.17

A Happy Birthday To Me!

7月17日、今日は私の43回目の誕生日です。

私自身は、自立心が付いて以来ほとんど変わらないにもかかわらず、歳月は確実に過ぎ去り、周囲の風景も大きく様変わりをしてしまいました。

他に誰もおらず乗客は私ー人の電車の窓から流れる風景を眺めているかのように、様々な出来事があり、多くの人達と出会い、そしてすべては過ぎ去っていきました。

十代前半の歳の頃までは、今の私くらいの年齢以上の人々など、まるで宇宙人か何かのようなまったく異質な存在に思えたものです。気が遠くなるほどの時間に感じられた長い歳月を過ごしていくことが、そしてそれを実際に過ごした人々の心境が、当時の私にははるか想像の外にあったのです。

それでもその後十代後半の歳の頃までには、私の前には私なりにそれからの人生を描いた空想の世界が急速に広がっていきました。そして相応の時間の経過とそれに伴なう数々の経験が、それら空想のーつーつを次第に現実のものへと変えていったのです。(続く)


2002.07.12

無敵の最強オバタリアン軍団 Vol.7

もう一体今の世の中はどうなってしまっているのでしょうか・・・、情けないやら、呆れ返るやら、腹立たしいやら・・・、もちろんみんながみんなこの調子とは思いませんが、この地域でこれだけ多くの良識と節度あるべき大人達が、勝手な自分達にだけ都合のいい屁理屈をならべて、開き直っているだけなのか、本当にそのように考えてのことなのか定かではありませんが、事実前述のような厚顔無恥な言動に終始しているのです。

他人を不愉快にさせたり迷惑をかけないようにごく当リ前に生活していくことは、決して難しいことではないはずです。私達一人一人が良識と羞恥心を取り戻し、自分がされて不愉快で迷惑なことは他人にしないという節度を持てばよいだけのことです。

オバタリアンを頂点として広く社会に蔓延してしまっている自己本位的発想の増長と羞恥心の欠落のスパイラルから脱却していく努力を日々の生活において実践していくことこそが、公正かつ健全な私達の社会づくりへの第ー歩であるといえます。


2002.07.11

無敵の最強オバタリアン軍団 Vol.6

自治体の度重なる撤去指導もみんな大勢なら怖くない意識で無視して、自分達の健康のためになどと言いながら、公共の土地を占拠して居座っているのです。これではまさにやった者勝ち、社会の規範となるべき大人達がこんな調子なのですし、良識や節度などどこ吹く風、自己本位の風潮がここまで蔓延してしまった社会の実情に本当に嘆かわしい気持ちになります。

その後の新聞報道では、強制撤去に乗り出す自治体も、その時期を収穫が終わる頃を見計らって実施する方針とのことでしたが、先日遂に強制撤去に出た様子がまたTV番組で放映されていました。河川敷を占拠していた輩達の抵抗も自治体は想定していたようですが、撤去当日ほとんど誰も現れなかったということにも、逆の意味で失望してしまいましたが、さらに最悪の気分になったのは、いくら不法占拠者達とはいえども他人が育てた作物を、どうせ撤去してしまうのだからもったいないなどと、またもやここでも近所のオバタリアン達が勝手に掘り返しに来ている様子が放映されていたことにでした。(続く)


2002.07.07

巡る巡る・・・ Vol.13

学歴や社会的地位などに固執したり、盲目的にブランド品を追い求めたり、必要以上に世間体を気にしたり、公私の境なく付き合う相手や消費の対象の選択基準を実績や第三者の評価に頼ったりと、普段の私達がごく何気なく日常的にしてしまって憚らない事柄の多くが、実は他人との争いにつながっていく小さくはない要因を形成しているのです。

カネやモノはもちろん他人も、社会生活においては事実上不可欠な要素ではあっても、決して人の存在の目的にはなりえないニ次的な要素です。換言すれば、それらが私達を真の幸福に導いてくれるわけでは決してないということなのです。私達を救い満たすことができるのは、唯ー私達自身に他ならず、自身以外のすべての存在は、よくても私達が自身を真の幸福に導くための一助にしかなりえはしないのです。

親とて子とて、家族とて人生の伴侶とて、いかなる組織や社会とて、自らを救い満たせない人の前ではまったく無力な存在でしかありません。(続く)


2002.07.06

巡る巡る・・・ Vol.12

とすれば、好きな人同士が集まって、嫌いな人同士はお互いに近づかないという、嫌いな人同志がお互いを自らとは相入れない別の価値として消極的な意味で尊重し合い侵害し合わないということで、争いを回避していく以外に方法はありません。

簡単なことのように思えるのですが、現実社会においてはたったこれだけのことが非常に難しいことなのです。自らの絶対的普偏的価値基準を持たず、自らの在り様を尊重し愛しむことができない人達、つまり相入れない相手に尊重されるベき自らの尊厳を持ちえない人達があまりにも多いからです。

自らの尊厳を持たない人は、他人を尊ぶ術など到底持ちえませんし、他人との比較の基準においてでなければ自らの在り様を認識することもできなかったり、自らの尺度を持たず、常に他人の価値基準や判断に終始してしまう例も珍らしくはありません。ともすれば他人を否定することでしか自己を表現し出張する術を知らないような人達とて決して少なくはないのです。(続く)


2002.07.05

巡る巡る・・・ Vol.11

すべての人達は、自覚の有無にかかわらず結局のところは、それぞれ一人一人の価値観に沿って日々自らの在り様を創り上げているのです。したがって、何を良しとして何を欲っしているのかは千差万別、何が良くて何が悪いのかもその人本人以外には解らないことですし、その人がそれを良しとするのであれば、第三者がとかくあれこれ言及すべきことでもありません。

各自が共通の価値感を持ち合わせている者同志、あるいはそれぞれの好き嫌いの基準に照らして相手を選択すれば良いことで、自らの尺度にあてはまらない第三者を決して否定すべきではありません。人は誰も関わりのない第三者から自らの在り様を頭ごなしに否定されたくはないでしょうし、それはお互い様のことです。

人類みな兄弟とか、天は人の上に人をつくらず・・・などとあまたの幻想的文言が世間に溢れていますが、人に感情というものがあり、好きな人がいる限りは反面嫌いな人も必ずいるわけで、すべての人が仲良く共存するなどということは決してありえないのです。(続く)


2002.07.02

オタッキーな人々Vol.3

駅に向う道すがら、必然的に彼らの多くと一緒に歩く状況になったのですが、ただ道端に佇んで道行く人々を眺めている?人もいれば、何台もの携帯電話をとっかえひっかえどこかに電話をかけ続けている人、片手のアンテナをいっぱいに伸ばした携帯用のテレビに見入りながら歩き続ける人、帰宅まで待ちきれずに?数人でかたまってそれぞれのボックスの中身を確認しているグループなどなど、まさにその日だけで1年分くらいのオタッキーな人々を見かけたような気がします。

私は私自身とは接点がないであろうと思い込んでいるだけであって、別に彼らの在り様に対してどうこう特別なネガティブな感情を抱いているわけではありません。しかしそれにしても、私にはどうしても奇異に感じてしまう彼らの存在に、私は視線を奪われ続けてしまったのです。

もちろん昔からオタッキーな人々はいましたが、それにしても何より昨今その数が、また彼らが一度に集まるような機会や場所も、そして日常的にコミュニケーションをはかるネットワークなどの環境が増大して、もはや一大文化かつ消費者層を形成しているのでしょうね。・・・驚きました。