DAILY SHORT COLUMNS - Daily Life - |
2003.08.30 |
さすらいのブルースシンガーVol.19
聞けばさすらいのブルースシンガーは、私生活においては二人の奥さんに愛想をつかされ逃げられ、もはや現在の共に暮らす女性とも結婚の予定もないとのことでした。仕事の上ではライブの営業から経理まですべて自ら一人で行っているのだそうです。 ライブハウスのオーナーは、白く長い髭で覆われた顔の仙人のような風体で、見かけは遊び半分であたかも自ら様々なミュージシャン達とセッションをするために店を開いているかのような雰囲気です。店に置いたウッドベースにはさりげなくロン・カーターのサインが残っていたりなどと、そうしたメジャーどころも時折来店する様子ですし・・・。 ライブジャックで沖縄民謡を切々と謳い上げた国立芸大出の若手シンガーソングライターは、奥さんの収入に頼る主夫とのこと。 他所での自らのライブを終了してからやってきたこれまた極端に灰(あく)の強い濁声(だみごえ)のシンガーソングライターは・・・・・、キリがありませんが、皆あまり自慢できるような状況にはない、よくも皆それで暮らしていけるものだと呆れ半分つくづく感心してしまうような連中が揃っているのです。(続く) |
2003.08.29 |
さすらいのブルースシンガーVol.18 その夜以来、前を度々通りかかってもそのライブハウスが開いているのを見たためしがありませんでしたから、たまたまのことなのかと思っていたところ、聞くところによればその店は22:00開店なのだそうです。ヨーロッパではさほど珍しいことではないのですが、そんな日本ではあまり見かけない営業のスタイルも、店のオーナー夫婦のライフスタイルを維持していくにはそれで事足りているのでしょう。 店のウェブサイトも覗いてみましたが、肩の凝らない実用的なサイトでありながらもなかなかお洒落なデザインでしたし、形式だけのサイトが多い中常連客とのやりとりも活発で、サイトも日常的に機能している様子でした。ライブ当日にも集まっていた常連客達が個々に運営している個性溢れるサイトへのリンクもあって興味深くも楽しめました。 仕事仲間の彼女もライブの夜以来さすらいのブルースシンガーとの旧交が復活した様子で、それから時々彼と呑みに出かけているようです。その度にわざわざ選んでというわけでもないのでしょうが、彼が案内してくれた店というのは、常連客でないと店とは判らないようなこじんまりとした小料理屋や昔置屋だった廃屋かと見間違えるような老朽化した建物をそのまま利用しての居酒屋であったりと、彼女には非日常的な体験だったようです。(続く) |
2003.08.27 |
さすらいのブルースシンガーVol.17 すっかりと常連達にライブをジャックされてしまった状態になっていましたし、さすらいのブルースシンガーももう唄わないとのことでしたから、私達も3:00を回ったあたりで店を後にしたのでした。何とその店に私達は7時間以上もいたことになります。 後日聞き及んだことですが、結局連中達はその夜を徹して呑めや唄えやの大騒ぎ、さすらいのブルースシンガーも帰宅の途についたのは、もう夜が明けてしまってからだったとのことでした。 週末でしたから連中がそのまま休めたのかどうかは判りませんが、さすらいのブルースシンガーは、その日の夕方の野外ライブがあったわけですし、移動の時間も考えればいくらも休めなかったことと思います。いつもこんな調子ではないと思いますが、彼のタフさ加減にはつくづく脱帽です。 それにしても連中の心底歌が好きな度合いもここまでくれば、もはや第三者の理解や許容の有無など何処吹く風、その夜のその店という世俗から隔絶した世界において、大人達があれほどまでに自らを開放する光景を目の当たりにしたことは、私には驚嘆に値する経験でした。(続く) |
2003.08.15 |
かつての孤高のフォトグラファーVol.20 私がピカソのゲルニカとの出会いから得たたった一つの本質的かつ普遍的事実、それはアートワークの持ち得る力、つまり見る人の心の琴線をここまで大きく打ち震わせ、そして奥底に眠っているそれぞれの何かを揺り動かすことができるのだという確かな可能性でありその驚きです。 ジョンレノンから得たのは、彼の生き方を通して自らの在り様を深く考察し、彼の様々な作品をただ楽しみ、そして時にはまた心動かされ、私の人生におけるその時々の出来事とそれぞれの曲が重ねって胸に残る数々の想い出であり、さらに今なお、またおそらくこれからも彼のナンバーを聴き続ける私にまた新たな想い出を刻んでいってくれることでしょう。 私はそれが心から素晴らしいと感じたものですし、そんな経験から創作活動とそれを見知らぬ人々に伝えるメディアの世界に身を置く強い決意を、あの日ダコタの前で固めたのでした。(続く) |
2003.08.11 |
かつての孤高のフォトグラファーVol.19 それにしても普段ではあまり感じないものですが、影響力のあるアーティストが亡くなったりすると、彼等の存在の大きさが改めて認識できることがあります。 国内においても、尾崎豊や元エックスジャパンのhideが亡くなった際のそしてまたその後の多くの彼等のファン達の動静が、私の印象には残っています。通夜や告別式に全国から多くの人達が集まったり、追悼の様々な集会や催しが開かれたり、それから何年経過しようとも未だ多くの人達の心に残り、毎年命日近くになれば様々なイベントがあちらこちらで持たれます。ジョン・レノンも、そして尾崎豊やhideも、亡くなってもいつまでも多くの人達の心に生き続けているのです。 第三者の心の中に生き続ける・・・、これは何も彼らのような特別な著名人に限ったことではありません。想う人達の数の差だけの問題であって、愛した伴侶をはじめ家族や友人が亡くなるような場合においても同様でしょう。 私も心から愛した女性を5年前に亡くしましたが、彼女は以来私の心の中に棲み続け、もはや私の一部として同化してしまっています。先月また命日が来たのですが、ピクニック気分で恒例の墓参りを済ませてきました。彼女の亡くなり方の問題で命日がはっきりしないこともあって、私はたまたま同じ月の彼女の誕生日の日に毎年出かけています。毎日どこででも彼女と私は一緒ですから、墓参りの必然性も私自身は感じてはいないのですが、それでもこの習慣はおそらく生涯にわたって続けていくことになるような気がしています。(続く) |
2003.08.10B |
もし現在の人類統計比率をきちんと盛り込んで全世界を100人の村に縮小するとどうなるでしょう(business & life共通) その村には… 57人のアジア人 52人が女性で 70人が有色人種で 70人がキリスト教以外の人たちで 89人が異性愛者で 6人が全世界の富の59%を所有し 80人は標準以下の居住環境に住み 1人は(そうたった1人)は大学の教育を受け もしこのように縮小された全体図から 私達の世界を見るなら また次のような視点からもじっくり考えて見ましょう もしあなたが今朝目が覚めた時 病気でなく健康だなと感じることが出来たなら もしあなたが戦いの危険や投獄される孤独や獄門の苦悩 もしあなたがしっこく苦しめられることや逮捕拷問 もし冷蔵庫に食料があり着る服があり 頭の上に屋根があり寝る場所があるなら… もし銀行に預金がありお財布にお金があり もしあなたの両親がともに健在で そして二人がまだ一緒なら もしこのメッセ−ジを読む事ができるなら あなたはこの瞬間2倍の祝福を受けるでしょう 昔の人がこう言いました 我が身から出るものはいずれ我が身に戻り来ると お金に執着することなく喜んで働きましょう このメッセ−ジを人に伝えて下さい そしてその人の一日を照らしてください ※作:K.Leipold ※訳:なかのひろみ |
2003.08.10 |
かつての孤高のフォトグラファーVol.18 彼女に会ってどうするなどとはまったく考えてもいませんでした。そのうちに何時の間にか彼女に会いたいという目的も忘れて、ただ私は馴染みのカフェでぼんやりと考え事をして時を過ごす感覚で毎日ダコタ前の決まった場所で何時間かの時を過ごしていました。 ジョン・レノンの死後まだ数ヶ月ということもあってか、毎日大勢の人達が花や祈りを捧げたり、写真をとったりと、ダコタ前はほぼ終日賑わっていました。一般の車も徐行したり停止したりするばかりか、非常識にも観光バスまでも一時停止したりするので、交通にも支障をきたしていました。警官だけでなく、もうすっかりと有名人になってしまっていたダコタのドアーマンも、人の整理や案内にあけくれている様子を、ぼんやりと通りの向かい側から眺めては漫然と物思いにふけったものでした。 ダコタ前に毎日通ったのは10日前後でしたが、結局ヨーコの姿を見かけることはありませんでした。そもそもそんなところに彼女が出てくるわけもないのですが・・・。(続く) |
2003.08.08 |
かつての孤高のフォトグラファーVol.17 ジョン・レノンが悲業の死を遂げたのは、私が渡米する数ヶ月前のことでした。 特別に彼のファンであったというわけでもなかったのですが、中学時代に初めて触れた洋楽がビートルズでしたし、すべてのアルバムを揃えるほどにはすっかりと傾倒した時期もありましたし、それ以降大学に入るまではポップス一辺倒で邦楽はまったく聞きませんでしたから、それなりに影響も受けたのでしょう。 私は解散してからのビートルズファンでしたが、解散後のメンバーのそれぞれの活動にはあまり興味が持てませんでした。ポール・マッカートニーとウイングスのアルバムを一枚持っていたくらいで、私が傾倒したのはあくまでビートルズとしてのナンバーであって、ジョン・レノンをはじめ彼等自身に対してではなかったのです。 それでも唐突な、それも愛と平和を謳い続けた彼の皮肉にも凶弾に倒れての死は、熱烈なファンのみならずもちろん私も含めて、広く世界に衝撃と深い悲しみを与えました。 その悲報を、私は当時よく通った渋谷のバーで聞きました。やはりビートルズファンだったマスターは、その夜は追悼のビートルズナンバーを延々とかけつづけ、バーを閉めてその夜その場のすべての客のチャージをフリーにしてしまいました。客の中には感極まって泣き出す人達もいて、期せずしてジョン・レノンの通夜となってしまったのでした。 ジョン・レノンのドラマティックなまでの悲報は、そんなとある国のとある街の小さなバーに至るまで世界中を駆け抜け、数知れない多くの人々が余韻に浸ってそれからしばらくの間思い思いのそれぞれのスタイルで喪に伏したのでした。(続く) |
2003.08.07 |
かつての孤高のフォトグラファーVol.16 その後また数日ニューヨークの美術館・ギャラリー巡りを続けるものの、ゲルニカとの出会いのあまりに強烈な衝撃の余韻がズルズルと後を引いて、私の心の奥深い部分に薄く固く張り付く粘土のように巣食ってしまい、ずっしりどんよりとした虚脱感に支配されてしまっていました。 そんな私にナチュラルに生じてきた感覚・・・、それはヨーコに会いたいという静かな衝動でした。亡きジョン・レノンの未亡人のオノ・ヨーコです。 特別に意図して探したわけではなく、たまたまだったのですが、私が借りたアパートメントは、セントラルパークウエストのジョン・レノンが凶弾に倒れた自宅アパートメント”ダコタ”からほんの2ブロック徒歩数分のコロンバスアベニューにあったのでした。 それから私は毎日午後から夕方にかけての数時間を、ダコタ全体を見渡せる通りを挟んだ向かい側の建物のへりに腰をおろして過ごしました。夕方になるとセントラルパークを散歩したり、様々なショップを覗いたりしながら、決まって行き付けの何軒かのシングルスバーのいずれかに寄ってアパートに帰るのが日課になっていきました。(続く) |
2003.08.06 |
さすらいのブルースシンガーVol.16 多くの人々が自らそれぞれの夢や希望を描くこともできないばかりか、そもそも描こうとすらもしない・・・、 主体性や積極性は日々退化し、個性が消失して画一性に満ち満ち・・・、 さらに強者や勝者という既得権者は変革を拒み、彼等や彼等によって造られた組織や体制に依存従属してしまうことで自由の放棄と引き換えに安定あるいは保証という幻想を追い続ける・・・、 それどころか、さらなる弱者や敗者を否定排斥することでしか自らの存在価値を認識する術を知らない・・・、 私達の多くは、そんな私達の社会の世知辛く閉塞的で未来への希望や可能性に乏しい悲しき実情を意識したり、あるいは無意識のうちにも感じ取ったりしているからこそ、また充実感や幸福感が欠落した日常生活に埋没してしまっているからこそ、さすらいのブルースシンガーやファンキーな仲間達のような自らに肯定的で開放的な在り様に心動かされるのでしょう。(続く) |
2003.08.03 |
さすらいのブルースシンガーVol.15 以前私が一般輸出入業務を生業にする会社を経営していた頃、アメリカ人社員の一人が何気なく私に言いました。「みんな明日の棲家や今夜の食事の心配をしながら生きている・・・」当時の私には彼のその唐突な言葉が思いがけなく、あまり合点もいかなかったのですが、近頃ではつくづくそのとおりだと思えるようになりました。 よく取り沙汰されることですが、外国人は自らをさらに高く評価してくれる企業を求めて転々とリクルートを重ねるのがごく一般的ですし、日本国内においても外資系の企業では、ある日突然荷物をまとめての集合指示があり、その場で解雇が通達されるなどということも珍しくはありません。つまりもともと依存や従属あるいは安定や保証といったような概念を、雇用する側もされる側も持ち合わせてはいないのですし、これが世界のスタンダーズ(=標準)であって、私達の国の常識はマイノリティー(=少数派)であるといえます。 私達の圧倒的多数は物事の本質を理解認識することすらできず、政財界のリーダー達をはじめとする勝者や強者は、自らの立場や既得権を擁護するために、本質を熟知していても知らない気付かないふりをし続け、事態の解決はおろか問題提起すらも先送りをし続け、あらゆるツケを未来の世代に回して私利私欲の追求に勤しむばかりです。公正さと公平さが欠落してしまった、そして一人一人の私達個人が自尊心を放棄してしまった、その結果思いやりや愛が日々失われつつある・・・、悲しきかなそれが私達の社会の昨今の実情なのです。(続く) |
2003.08.02 |
経済的安定という私達の国においてはごく常識的な発想が、いかに世界全体においては大多数の人々にとって追い求めるどころか発想することもできないほどの非常識的概念であるのかという事実を、私はこれまで世界を旅してつくづく実感しています。 経済的安定・・・、世界の常識の基準からはまさに奇跡の業と言っても過言ではない私達の国の戦後の高度経済成長、そして私達にとってももはや過ぎ去りし古き良き?時代の遺物であるところの終身雇用制度、年功序列や護送船団式事業推進、企業至上主義などという強者と勝者の論理による過去の幻影からの産物として、また自由と自立を放棄し、そして強者と勝者あるいは彼等の論理により構築された組織や社会への従属と依存に甘んじることへの代償として、この希有な世界の非常識的発想が生まれたのです。 つまるところ安定と自由は反対語であり、安定を指向するということはそれだけ束縛の度合いが高まるということに他なりません。 手に入れたものや築き上げたものが大きければ大きいほどに、人の執着心や安定指向は高まっていくものですし、人が自由を手に入れることは非常に困難なことなのです。さらに私達の国では自らが自由でないことに気付いてもいない人達が大多数であるという、一億総白痴化が社会に広く深く浸透してしまっているのです(続く)
|