DAILY SHORT COLUMNS - Daily Life -

 
2003.07.31
さすらいのブルースシンガーVol.13

もうすっかりとライブジャックされてしまっていたので、彼女がもう唄わないのかと尋ねたところ、さすらいのブルースシンガー曰く、翌日というよりももうその当日のまた別の野外ライブに備えてセーブしているのだとのこと・・・、この状況もまったく観客に感じさせないところでの計算づくな周到さや、連夜のライブにもかかわらず事実上単独での4回にもわたるパワフルなパフォーマンスに感心するやら呆れるやら、何といってもさすらいのブルースシンガーはもう50歳をとうに超えているのです。

こんな機会でもなければなかなか私が出会うこともないであろう人達、それはお互い様で相手の側にとってもあてはまることでしょうが、彼等に共通しているのは心底歌が好きだということ、唄うために毎日があり、そして唄うために如何なる犠牲も払えるということなのだろうという気がしました。

私が以前に出会ったこれに似た印象を感じた人達のことを想い出しました。エーゲ海沿いのあるリゾート地で知り合った地元のサーファー達のことです。彼等の興味の対象はまさにサーフィンのみ、波の上以外の人生のすべては波に乗るための手段としてのみ存在しているのです。そんな自らの在り様や将来を思い悩むでもなく、ただひたすらに波を追いかけていた連中のことでした。(続く)


2003.07.30

さすらいのブルースシンガーVol.12

その頃にはもう慣れない高齢者達は帰ってしまっていて、ともすれば私が最も年配者だったかもしれません。もちろん最長老のさすらいのブルースシンガー本人を除いてのことであることは言うまでもありませんが・・・。

やがて最終電車間際になって、また新しい常連達がぞろぞろとやってきました。彼らがライブが続いていることに驚いていましたから、いつもこんなパターンであるわけではなさそうでした。

彼等は同業のシンガーソングライターで、どこかで自らのライブを済ませてからやってきた人物であったり、専業ではまだ生計が立てられないのでしょうか、仕事を終らせてからやってきた人物であったりで、もうそこからは推して知るべし、飛び入りボーカルから始まって、さすらいのブルースシンガーのインターバル時には、彼等のミニコンサートになってしまったり、またそこに店のマスターや常連客の腕に覚えのある人達が加わったりと、また気付けば同じテーブルにさすらいのブルースシンガーがすっかりと腰を落ち着けて観客に変わってしまっていたりと、もう何が何だか何でもいいや状態で、その頃には時計はもう2:00AMを回ってしまっていたのでした。(続く)


2003.07.29

さすらいのブルースシンガーVol.11

さすらいのブルースシンガーのパフォーマンスは、30分前後続いては30分前後休みというペースで延々と繰り広げられていきました。

インターバルの間に、聴衆はもちろんのこと本人もアルコールが入ってどんどんヒートアップしていくのです。前回のライブの時も同様でしたが、アルコールが入って顔に赤みがさしてくるくらいの方が、素面(シラフ)の時よりもギターもボーカルもぐっとその艶とパワフルさを増していくのです。

こんな小さなライブハウスではよくあることなのかもしれませんが、インターバルの間にはさすらいのブルースシンガーも客と一緒になって呑み語り合っているという距離がまったくないのですから、時間が流れるにつれて一体感も増していきました。

途中三回目のパフォーマンスから店のマスターのリード&サイドエレキギターとのセッションになったのですが、またこのマスターのギターテクニックの達者なこと・・・、そしてまたさすらいのブルースシンガーとの息もどうしてここまでと驚いてしまうほどにピッタリと合っているのです。

後から判ったことですが、この会場では数ヶ月毎にコンスタントなさすらいのブルースシンガーのライブがあるとのことで、本人達にしてみれば勝手知ったるところだったのですが、あまりにレベルの高いセッションのインパクトは大きく、ぐいぐいと引き込まれていくうちにあっという間に時は深夜を回ってしまっていたのでした。(続く)


2003.07.27

さすらいのブルースシンガーVol.10

いやはや・・・、それはそれは筆舌に尽くし難いたいへんなクレイジーナイトでした。

20:00から始まるはずのライブ会場に私達が着いたのが少し前、私達の前にはまだカップルが一組だけで、近くに住んでいる彼女も一度も入ったこともないようなマイナー?な会場でしたし、私達との二組だけなのかと思いきや、時間を過ぎても一向にライブが始まる気配はありませんでした。

常連らしいそのカップルと、さすらいのブルースシンガーとは旧知の彼女が、お互いの自己紹介も兼ねた共通項での談笑しているうちに、20:30を過ぎた頃から勝手知ったるという雰囲気で、常連客を中心にぞろぞろと会場に入りはじめ、気付けば小さな会場でしたが何時の間にか満員状態、最前列の客とさすらいのブルースシンガーとの距離もほんの1メートル足らずというほどの盛況ぶりでした。

その夜は、さすらいのブルースシンガーのソロ、ギターの弾き語りでした。その夜のナンバーは昨年のライブに比較すればずっと若い客層向けなのでしょうか、次々とポップなナンバーが続きましたが、中には蕎麦打ち一筋何十年の未だ現役老人や、さすらいのブルースシンガーが最近贔屓にしているらしい焼き鳥屋一家などという高齢の客もいましたから、往年のスタンダードナンバーもところどころに組み入れながら、いきなりテンションの高いパフォーマンスが繰り広げられ、長〜いファンキーな夜がスタートしたのでした。(続く)


2003.07.21

かつての孤高のフォトグラファーVol.15

ゲルニカとの出会いは、その後の私の人生に、そして今なお大きな影響を与え続けています。

ゲルニカの何たるかでも、その出会いが私に何を及ぼしたのかでもありません。私がゲルニカから確かに受け取った強烈な衝撃と深い感動、一週間毎日通い続けてゲルニカと対話しつつも、私はその根拠を追及しようという気には何故かまったくなりませんでした。ゲルニカを前にして私は、私自身の在り様について、そしてそれからの人生についてただただ熟考を重ねるばかりの日々を過ごしたのでした。

私がゲルニカとの出会いから得たたった一つの本質的かつ普遍的事実、それはアートワークの持ち得る力、つまり見る人の心の琴線をここまで大きく打ち震わせ、そして奥底に眠っているそれぞれの何かを揺り動かすことができるのだという確かな可能性でした。(続く)


2003.07.20

かつての孤高のフォトグラファーVol.14

ゲルニカとの衝撃的な出会いとは対照的だったのが、ロダンの考える人との出会いでした。

考える人が、ゲルニカと同じ近代美術館にあったのか、それとも後日別の美術館で見たのかは、あまり昔のことなので記憶が定かではありません。広大な美術館でしたから国立美術館だったように思いますが、展示作品を次々と見て回っていた時に、突然目の前に考える人が現れたのでした。

考える人は、ゲルニカを知らない人でも知っている、最近ではCMにも登場していましたし、私が通った小学校の校庭にもレプリカがありましたから、それであることはひと目で判りました。

私の率直な印象は、<これは本物なのだろうか???・・・>ということだけでした。

「天才?そんなものは決してない。ただ勉強です。方法です。不断に計画しているということです。」(ロダン)

そんなスタンスの人物だったようですし、これだけ著名な作品なのですから、おそらく彫像や彫刻という同じ分野の人達の評価が高いのでしょうか・・・、いずれにせよ私には何ら感じるところはありませんでした。

それでもしばらく周りを回りながら鑑賞していたところ、母親に連れられた小学校低学年くらいの男の子という日本人の母子がやってきたのですが、その男の子の「ねえねえママ、ロダンの考える人だよ!ねえ、これって本物なのおっ???」という私とまったく同じ感性と発想の弁に思わず苦笑してしまいました。(続く)


2003.07.18C

■映画と本と音楽と…/愛は報われるか

●ライト・パブリシティの応接室で

1982年の秋、編集部を移ってすぐのことだった。創刊したばかりの季刊のアマ
チュア向けカメラ雑誌に僕は2号目の途中から異動した。3号の特集テーマを出
すと採用され、口絵と表紙も担当することになった。2号の表紙と口絵は集英
社の中村昇さんにお願いし、浅野温子をモデルにした撮り下ろしだった。浅野
温子は前年「スローなブギにしてくれ」で人気が出ていた女優だった。

3号目のカメラマンを決めなければならなかった。僕はもうひとりの編集者のS
さんと一緒に、ライト・パブリシティ写真部の副部長をしていた目羅勝さんに
会いにいった。ライト・パブリシティはキヤノンの広告を担当し、当時はAE-1
という一眼レフの広告を制作していた。

そのAE-1のシリーズ広告の写真を目羅さんが担当していた。アメリカの様々な
シーンをアンダー目の露出でくっきりと濃度を上げて撮影した写真は、新聞広
告のカラーであっても印象に残るものだった。

ライト・パブリシティには僕が憧れ尊敬するコピーライター秋山晶さんがいた
(今もいると思う。6年ほど前にお会いした時はライト・パブリシティの会長
だった)。秋山さんのコピーは文学である、と僕は人に語ったことがある。

目羅さんは、その秋山さんと組んでパイオニア「ロンサムカーボーイ」のシリ
ーズ広告の写真を撮っていた人である。「ロンサムカーボーイ」はカーオーデ
ィオだったが、アメリカの俳優ウォーレン・オーツをキャラクターに起用した
イメージ広告だった。

ウォーレン・オーツは長く脇役をやっていたが、サム・ペキンパー監督に愛さ
れ「ガルシアの首」という映画で主演をつとめた。1974年のことである。その
前年には初主演映画「デリンジャー」(ジョン・ミリアス監督)が公開されて
いたけれど、それほどメジャーな役者ではなかった。ただ、僕を含めて熱狂的
なファンはいた。男が惚れる役者だった。

「ロンサムカーボーイ」は「ガルシアの首」のウォーレン・オーツそのままの
イメージで広告を展開した。アメリカの荒野にひとり立つウォーレン・オーツ。
ヨレヨレになった白い麻のスーツにノータイのシャツ。サングラス。手には45
口径のコルト・ガバメントである。

──人は変わり、町は変わった。荒野では、何も変わらない。

そんなコピーが写真に添えられていた。若かった僕は駅貼りポスターを盗もう
と思ったくらいだ。その後、「ウォーレン・オーツ 荒野より」というインタ
ビュー本が出た時もすぐに買った。その本の写真は、すべて目羅さんが撮った
ものだった。装幀はライト・パブリシティの御大アート・ディレクター細谷巌
さんである。

そんな話を目羅さんに会った時に話すと、「あの本、買ったんですか。映画、
好きなんですか」と聞き返された。残念ながら、しばらくアメリカへロケにい
くという目羅さんに仕事は引き受けてもらえなかったが、それからしばらく映
画談義が続いた。

そんな話の中で、目羅さんは「『蒲田行進曲』見ましたか。よかったですよ」
と言った。10月初旬に封切られた「蒲田行進曲」は気になっていたが、つかこ
うへいの芝居が僕はあまり好きではなかった。「熱海殺人事件」にしろ、つか
こうへいの芝居には毒がありすぎた。その毒が僕の肌に合わなかったのだ。

●上野松竹の観客席で

目羅さんに勧められたその週末に、上野松竹で「蒲田行進曲」を見た。それは
生涯忘れられない映画になった。男が数十メートルのビルから飛び下りるアク
ションシーンを見て涙ぐんだのは初めてのことだった。それまでのドラマの積
み重ねが、僕をアクションシーンで涙ぐませたのである。

その頃、僕の精神は荒れていた。屈折した想いが澱のように沈殿し、日々を楽
しまなかった。長く信じてきたものに何の意味もなかったのだと思い知らされ、
自分の10年間は何だったのだと問いかける毎日だった。無頼にはなりきれなか
ったが、失ってしまったものの大きさに打ちのめされて生きていた。だから、
僕は「蒲田行進曲」のヤスに感情移入した。ヤスは僕自身だった。

ヤスは映画を愛し、映画の仕事をすることで生き甲斐を感じている。夢はある。
しかし、その夢の片隅で生きることで彼は満足している。不相応な夢は抱かな
い。だからこそ、彼は倉丘銀四郎というスターの取り巻きのひとりとして自虐
的に生きていけるのだ。

大部屋俳優であるヤスは、銀四郎に命じられたことは何でもやる。無茶苦茶で
わがままな銀四郎の言いつけを何でも呑み込んでしまうから「呑み込みのヤス」
とあだ名されている。ヤスは銀四郎の子供を妊娠した、落ち目の女優である小
夏まで呑み込んでしまう。

銀四郎は子供のように自己愛だけの人間だ。子供がそうであるように、残酷で
もある。「小夏と結婚して、腹の子の父親になれ」と命じておきながら、ヤス
の部屋で小夏を抱く。部屋を逃げだそうとするヤスに「見てろ」と命じる。小
夏が激しく応じ始め、ヤスは部屋の隅で膝を抱えてうずくまる。

ヤスは才能も力量もないくせに夢を抱えてしまった人間だ。銀四郎はスターで
ある。無理難題を押しつけて、人を人とも思わない扱いをしても彼はスターな
のだ。彼にとっては自分のアップが何カットあるかが問題であって、映画の出
来そのものは関係ない。彼が愛しているのは自分であって、映画ではない。

だが、ヤスは銀四郎に逆らえない。小夏に「あんた、男としてのプライドない
の」と罵られながらも小夏と結婚する。妊娠中毒症で入院した小夏をかいがい
しく世話をする。半端な仕事を取りまくる。「大丈夫? ヤスさん」と仲間に
聞かれると、小指をたてて腹が大きくなったという身振りをしながら「これが、
これなもんで」と照れ笑いをする。

ヤスの愛は報われない。ヤスは時代劇の斬られ役で怪我をしたり、テレビシリ
ーズ「冒険者たち」(当時、本当に放映されていた)で千葉真一に撃たれて工
事中のビルから墜ちる。もちろんスタントマンが墜ちているのだが、そんな危
険な役を懸命につとめているヤスの心根を想うと、ジワリと何かがこみ上げて
くる。

ヤスは、銀四郎のために新選組の映画で階段落ちをやる決意をする。新選組映
画の一番の見せ場である池田屋の斬り込みシーンで、最初に斬られて二階から
落ちていく浪士の役である。馬鹿でかい階段を作ったために、誰も引き受け手
がなかった役だ。死を覚悟してヤスは引き受ける。

階段落ちの前夜、酔って帰ったヤスは荒れる。部屋中を壊し、十年間、大部屋
俳優として生きてきた屈辱を晴らすように荒れまくる。スターが妊娠させた女
を押しつけられた怨みを口にしながらガラス戸にものを投げつける。それは、
初めて見せるヤスの鬱屈だった。その時のヤスのセリフを僕は今でもそらで言
える。

  前はね、平気だったのよ。
  何言われてもね、へらへらへらへら笑ってやってきたの。
  それがどうしちまったんだろうね、俺。
  お前のことをね、好きになればなるほどね、
  悲しいんだよな、この心が。
  お前とね、一緒に生きていこうと思えば思うほどね、
  せつないんだよな、この胸が。
  お前とね、離れられなくなればなるほどね、
  苦しいんだよな、身体中が。

このセリフからあの素晴らしいラストシーンまで、僕の頬を涙が伝い続けた。
ヤスの屈辱、鬱屈、嫉妬、辛さといった感情が僕を共振れに導き、階段落ちの
シーンでは「お前は、志半ばに倒れていく勤王の浪士だ。簡単にくたばるな。
あがってこい、ヤス」という銀四郎のセリフに人目もかまわず泣いていた。

その日、僕の魂は浄化された。久しぶりに何もかも忘れ昂揚した気分で映画館
を出ると、すぐに秋葉原の石丸電気へいき「蒲田行進曲」のサウンド・トラッ
クのLPを買った。その夜から何度も何度もレコードを掛け、何度も何度も「蒲
田行進曲」を反芻した。その度にヤスの心根を想って涙した。

●横浜へ向かうロケ車の中で

目羅さんの都合が合わず、次の人を捜さなければならなくなった僕は、その頃、
YMOやサザンオールスターズ(「蒲田行進曲」には桑田佳祐が作り中村雅俊が
歌う「恋人も濡れる街角」が挿入歌として使われている)のジャッケット写真
などで注目されていた半沢克夫というカメラマンに目をつけた。

連絡をすると、半沢さんはポートフォリオを持って編集部に来てくれることに
なった。それまでの作品を見て半沢さんに撮影を依頼し、その後、いろいろ雑
談している時に「『蒲田行進曲』見ましたか」と半沢さんがポツリと言った。
「もちろん見ました」と僕は意気込んで答えた。

──いいですね、あれ。
──たまりませんね、あれ。

それだけで僕は半沢さんと通じ合えた(ような気がした)。

──サントラのLP買ったんです。録音しましょうか。
──いいですね。

ロケの日にテープを持ってくることを約束して別れた。当時、最も高かったメ
タルテープを買って「蒲田行進曲」のサントラ盤を録音した。ヤマ場のセリフ
が入っていた。もちろん、ヤスが部屋を破壊し尽くした後に、独り言のように
口にするセリフも入っている。録音しながらそのセリフを聞き、僕はまた涙を
流した。

ロケは横浜だった。モデル、マネージャ、スタイリスト、ヘアーメイク、アシ
スタント、それに半沢さんと僕だった。早朝に集合した僕たちは、車二台に分
乗し横浜に向かった。僕はアシスタントが運転する半沢さんの車に乗り込んだ。
乗ると同時に、テープを差し出した。

僕と半沢さんは「蒲田行進曲」の音楽とセリフを聞きながら横浜へ向かった。
川崎を越えた頃、半沢さんがまたポツリとつぶやいた。

──愛は報われるんですかねえ。

僕は半沢さんを見た。半沢さんは返事を期待していたわけではなかった。しか
し僕は、みっともなくも美しく真摯なヤスの愛を思い出しながら言った。それ
は、長く鬱々とこだわり続けていた僕自身に言い聞かせる言葉でもあった。

──報われることを期待しないから愛なんですよね、きっと……

【そごう・すすむ】sogo@mbf.nifty.com
部署が変わり、28年と半年やってきた編集者生活が終わりました。感慨もあり
ますが、基本的には前向きの人間のようで、次の仕事に早く慣れたいと思うば
かり。50過ぎの新人なんてシャレにもなりません。マックからウィンドウズへ、
クォーク、フォトショップからエクセル、ワードの世界へ異動です。

旧作が毎週金曜日に更新されています
http://www.118mitakai.com/2iiwa/2sam007.html

玄光社WebSite
http://www.genkosha.co.jp/

〔日刊デジタルクリエイターズNo.1353(2003/07/18.Fri.発行)より転載〕


2003.07.18B

かつての孤高のフォトグラファーVol.13

そんなゲルニカ誕生の背景やその後の経緯については、帰国後それも何年も経過してから私は知り及びましたが、アートワークとは本来それ自体で完結しているものですし、私にとってはそうした蘊蓄(うんちく)はどうであれゲルニカは、それから一週間毎日近代美術館に足を運ばせるほどに絶対的な強烈な印象と底知れぬ深遠さを私に与えたのでした。

最初の展示ホールの正面の壁一面のゲルニカを取り囲むようにその展示ホール全体は、どこかの美術学校の生徒達のゲルニカの習作でいっぱいでした。どこがどうしてそんなに違うのかは絵心のない私には解りませんでしたが、数あるどのドローイングを見ても、それらは私には何も感じてとることもできないただのお絵描きにしかすぎませんでした。

独断と偏見に満ちた私のつまらないゲルニカ批評などはここでは割愛します。もう世界中で語り尽くされてきたことですし、そもそも他人の評価など何らの意味も成すものではありませんから・・・。例えば事実直接観賞の経験のある方で、何も感じるところはなかったとか、ピカソが天才などとはまやかしだなどと仰るような方も、私は少なからず知り及んでいますし、それほど人それぞれ感じるところは千差万別なのです。

私が声を大に主張したいのは、まだご覧になっていらっしゃらないスペインにお出かけの方は、ご自身の目と心でご覧になるべきだということだけです。(続く)


2003.07.18

かつての孤高のフォトグラファーVol.12

ゲルニカとは、北スペインのバスク地方にある小都市の名称です。この町は、バスク人にとって深い意味を持っていました。バスクの人々は中世のはじめからこの町を首都と考え、彼らの独立精神と民主主義の象徴と考えていたのです。

1937年4月26日、独裁者フランコを支持するナチス・ドイツはこの町を爆撃しました。

この作品にはピカソにおける二つの重要な象徴が描かれています。一つは中央の荒れ狂い逃げまどう馬であり、もう一つは画面左上に描かれた虚ろな目をした牡牛です。馬は人民をあらわし、そして牡牛は獣性と暗黒の象徴として描かれています。この二つの動物の対比に、ピカソがこの作品に込めた怒りと悲惨があるわけですが、ただ後にピカソが語っているように、この牡牛はファシズムを象徴しているわけではないようです。だとすればこの作品は、戦争という人間性を抹殺した極限状況における、人間全体の残忍性、恐怖、悲惨さ、虚脱感をあらわしたものであり、我々人類に対するピカソの警告とみることもできます。


スペインに“民主主義”が戻るまでは絵も戻さないーーとピカソが本国返還を拒み続けたゲルニカが、42年間展示されたニューヨーク近代美術館から、マドリードのプラド美術館に空輸されたのは1981年9月のことでした。

ピカソが終生憎んでやまなかったフランコ将軍(スペインの人、ヒトラーと手を組んだ)は、 ピカソが亡くなった2年後の75年に、息を引き取りました。その後、さまざまな混乱はあったものの、 スペインに民主主義が回復していき、それにつれ、ゲルニカの返還も具体化していきました。 結局、ピカソが残した二つの条件、“民主主義が回復した後”と“自分が一時期館長を勤めたプラド美術館に”が尊重されました。(続く)


2003.07.17


人の足を止めるのは「絶望」ではなく「諦め」
人の足を進めるのは「希望」ではなく「意志」


人は「絶望」するから足を止めるのではない。
「絶望」から這い出ることを「諦め」てしまったから足を止める。

人は「希望」があるから前に進むのではない。
「希望」を探そうという「意志」で前に進もうとする。

〔HIBIKIさん〕


2003.07.16

かつての孤高のフォトグラファーVol.11

それから数日後に初めてニューヨークの近代美術館を訪れた時のことです。

その時の私の一連の視覚がまるでセピアがかった古いムービーフィルムのように、それでもいまだに私の脳裏には鮮明に焼き付いています。

二階に続く大きな階段を、踊り場で息をついていた老女の手を引いてゆっくりと上がると、右手の最初の常設展ホールに、その壁一面の大きな絵画はかけられていました。

それを最初に目にした瞬間のインパクトの強さ、〈何じゃあこりゃあっっっ!!!???・・・〉、私は心の中で思わず叫び声をあげてしまいました。それがピカソのゲルニカとの衝撃的な初めての出会いでした・・・。

それがゲルニカであることは、すぐ次の瞬間に判りました。書籍などでそれまでに何度も目にして知識としてはあったからです。

たかが絵画です。静かな感動の程度であればそれまでも様々なアートワークから感じとることができた経験はありましたが、後退りをしてしまいそうになるほどの、それもゆっくりと観賞する以前の目にした瞬間にそれだけ強い衝撃を感じたことなど、後にも先にもまったく経験がありません。( 続く)


2003.07.15

かつての孤高のフォトグラファーVol.10

一つの実例として、まだ二十歳代前半の頃に渡米した際の私の心の琴線を大きく震わせた衝撃的な出会いについて言及したいと思います。

普段から人物や団体あるいは場所などを特定する固有表現は可能な限り避けるように心がけているのですが、ここでは例外としたいと思います。

当時の私の頭の中は、よく言えば想像力に満ち満ちていましたし、実際にはもはや妄想に近い基準で現実社会や日常の生活との境も希薄となって、鋭敏に研ぎ澄まされた私の感受性は、五感に訴えかけるすべてを自らのアートワークというフィルターを通して捉えていたのでした。

大学を中退して自らの方向性と方法論を見失ってしまった私が当時唯一明確に抱くことができた希望、それは物心付いた頃からの様々な強い興味の対象であったアメリカ、というよりもニューヨークに行きたいという衝動でした。

思い立ったら実行あるのみ、それから三ヶ月間昼夜を問わずにアルバイトに明け暮れ、そして私は単身ニューヨークの地に降り立ちました。

深夜にケネディー空港に到着する便でしたから、その夜だけはと日本からホテルを抑えていきました。翌日からまずは寝ぐら探しですが、それから約一年に渡る私の現実は小説より奇なる体験についてはまた別のシリーズで触れることとして、約10日後にやっとの思いでアパートメントを借りることができました。

またすっかりと前置きが長くなってしまいましたが、生活の場を確保できてようやく少し落ち付いたそれからの私が最初に始めたのは、連日のミュージアムとギャラリー巡りでした。(続く)


2003.07.14

さすらいのブルースシンガーVol.9

その道のアーティストとして第三者から相応な対価を受けるために、そして自らのアートワークに対する第三者の継続的評価を受けるためには、ましてやそれを感性も価値観も異なる相手に対しても求めようとする絶対性や普遍性を確立していくことは、音楽の世界に限らずどのアーティスティックな分野においても並大抵なことではありませんし、そうした境地を極めたアーティストは全体から見ればごくごく一握りの人達に過ぎないことでしょう。

自らのアートワークを世に問うための最低限の満足と完全な満足の間には雲泥の差がありますし、これで良しというアーティスト自身の完全な満足の基準など、アートの世界にはそもそも存在しえないと言っても過言ではありません。

絶対性・・・、例えばアーティスト個々の独自の思想や感性をベースとしたある一つの確信的イメージに加えて、それを具現化していけるだけの技量と経験を兼ね備えた絶対的価値基準、それが創作活動の原点であり、そしてそのアーティストの活動のための原動力であると言えるでしょう。そして、その絶対的価値基準に到達しているアーティストのアートワークであれば、鑑賞する側との間に感性や価値観の相違があったとしても、少なくとも最低限度の消極的評価は受けることができると思うのです。

普遍性・・・、前述の絶対性を備えたアーティストが、どれだけ時代性や地域性の格差を、そして感性や価値観の相違を克服していくことができるかどうかでしょうし、多くの場合芸術的価値が認められたアートワークとは、絶対性に加えてこの普遍性が高いものであると言えます。

そうこうしているうちに、さすらいのブルースシンガーのライプの長〜い夜が週末にまたやってきたのでした。(続く)


2003.07.09

さすらいのブルースシンガーVol.8

そのクリエイターの一体何が第三者をそれほど感動させるのでしょうか。送り手と受け手の感覚の波長がたまたま合えば、何ら特別な条件は必要ありません。創り手の思念あるいは日々の研讃や修練の成果がそのまま第三者に伝わり受け入れられることでしょう。

しかし、送り手と受け手の感覚の波長が合わない場合はどうなのでしょうか。さすらいのブルースシンガーと私のケースで言えば、彼の感性ラインは私のそれとは本来相当にずれたところにありました。私はこれまで彼の紡ぎ出すような音楽を日常的にあまり耳にしたこともありませんでしたし、最初にコンサート会場で接した彼のサウンドに対して、率直にそこは私には場違いな空間だと感じてしまったほどでした。それでも私は大いに心動かされ、楽しさと元気パワーを彼から受け取り、一年もの時を過ごしてもなおこうしてこのエピソードをここで綴っているのです。

まずは、自己の存在と自らのアートワークに対しての満足、これはアーティストには必須の要素といえます。アーティスト自身が自信を持ちきれないアートワーク、それは作品としての最低基準にも達していない習作と言わざるをえません。アーティストやアーティストを志す人達のほとんどすべての人達は、この基準はクリアーしているものですし、実際にはこの限りない自己満足の基準から創作活動はスタートしていくといっても過言ではありません。

この基準にずっと留まったままの人達、つまり自己完結的な人達も驚くほど大勢世間には存在していますが、当然の如くそうした人達がアーティストとして社会に受け入れられることはほとんどありません。何故ならアートとは、第三者の心をどれほど揺さぶることができるかということで、価値の度合いが決定するものだからです。(続く)


2003.07.08

かつての孤高のフォトグラファーVol.9

今回のかつての弧高のフォトグラファーについても、長い間見つめ続けてきただけに失望の度合いもそれだけ大きかったということは否定できませんが、まあそれでも脱落してしまった相手に対しては<ああ、またおまえもか・・・>という諦めのため息だけが残るだけのことであって、もう私もすっかりとなれっこになってしまいました。

もちろんこれは、WHO AND WHERE IS THE VERY TRUE ARTIST?という特異な、それも私の独断と偏見に満ちた視点からの判断によるものであって、決して人間性や方法論など彼らの在り様を否定するものではありません。あくまで私の心の琴線がどれほど震えるかという単純に私の好き嫌いの基準と言っても過言ではなく、それを相手に伝えるわけでもない、言わば思想の自由という誰にでも与えられた当然の権利の一つですし、何より相手にとっては預かり知ることすらない赤の他人である私の心の中の出来事に過ぎないのです。

同じものを見ても、人それぞれ感じ方は異なります。それでも完成度の高いアートワークであればあるほど、多くの人達に共通の印象を与えることができるでしょうし、それが本当の意味で価値があることであるのかどうかは別にしても、少なくともそうした作品が社会的あるいは歴史的評価を受けることは否定できません。またそういう意味では、たとえ私一人の心の動きであるに過ぎないとは言え、多くの鑑賞者と共有することにつながっていくかもしれないある一個の印象であることもまた否定できない事実なのです。(続く)


2003.07.07

かつての孤高のフォトグラファーVol.8

私にとっては一つの大きな心の拠り所にもなっていた彼という存在がまた一つ静かに消失した虚無感に包まれながら、照りつける夏の日差しと蒸し返す熱気の中をぼんやりと駅に向かって歩きながら、遠く過ぎ去った日々の中で、夏の夜の蛍の光が消えゆくが如くこれまで失い続けてきた私の心の琴線を震わせてくれた人達を漠然と想い返していました。

研ぎ澄まされたシャープなそしてアグレッシブであった感性の持ち主達のどれほど多くが、いたずらに時を過ごすうちにそして世俗の塵埃にまみれていく過程で、その輝きを失いそのかけがえのない感性を錆びつかせ朽ち果てていってしまったことでしょう。

私が出会い影響を受けた様々な優れたアーティスト達の多くは、日常の生活に埋没し平穏な日々や将来への安定と、あるいは生計を立てるためにもしくは富や名誉を追及していくことと、その個性や才能を引き替えにしてしまったのでした。

勿論私は彼らを責めているわけではありません。ただ失望を重ねる過程において、如何に真の絶対的価値を創造することが困難であるか、ましてやさらにそれを持続していくことなど至難の業に等しいという現実に、出会った彼らの数だけ接してきたからです。(続く)


2003.07.04

さすらいのブルースシンガーVol.7

彼はその頃のスピリットをそのまま持ち続けていて、心で感じる本質的部分では何ら変わってはいないと、彼女も感慨深げでした。

それでもその場の状況をよく見極めて、聴衆に応じた選曲やアレンジを的確にしていることも感じてとることができ、ライブハウスやスナックバーといった聴衆と一体化してしまうような小さな会場での活動を中心とする彼には、聴衆を楽しませつつも自らのスタイルを護り続けるそうした職人芸的構成パターンも、おそらく何通りもあるのでしょう。

今回野外コンサートの告知をたまたま雑誌で見つけたことで彼のウェブサイトをチェックしてみたところ、また来週彼女の自宅近くの今度は若者向けのロック喫茶のような店でライブがあるとのことなので、前回とはまったく異なる彼の側面が見られるのではないかという期待感とともに、また彼女を誘って出かけてみたいと思います。(続く)


2003.07.03

かつての孤高のフォトグラファーVol.7

一つ一つ順々に彼の作品を見ていきながら、私の胸の内に高揚し続けていた期待感は急速に落胆へと変わっていき、何とも表現しがたい深い失望感でいっぱいになってしまいました。

いつもの彼のタッチだと言えばそう言えなくもありませんし、テクニックやプリントのクオリティーなどのうえでもしっかりしていると言えばしているのです。彼以外の作家の作品であったとしたならば、それなりに納得できてしまったのかもしれません。一律1カット12万円と入り口に価格表示がされていましたが、おそらくは購入する人も少なくはないのでしょう。しかし、悲しきかなそれらは、私の感性には何も伝わってはこない、どこにでもある駄作の羅列にしか過ぎませんでした。

どうしてこんな作品であの彼が写真展を開けてしまうのであろうか、私にはまったく理解ができませんでした。もちろん彼に限らず作品の出来不出来というのは、どんな作家にもあることです。そもそも1号あたりいくらなどと作品の価格を決めてしまうような絵画の世界の仕組みなどは常々ナンセンスと感じてもいます。それにしても、それらの彼の作品と私が知るところの彼のこれまでの在り様とがまったく結び付かず、それ以上理由を探し続けること自体も限りなく不愉快に感じられ、私はそのままギャラリーを後にしてしまったのです。(続く)


2003.07.02

かつての孤高のフォトグラファーVol.6

その老舗のギャラリーは、まだ学生だった頃には時折訪れたことがあったのですが、私にはほぼ20年ぶりの懐かしいところでした。

また彼らしい渋いギャラリーを選んだものだと妙に納得してしまいつつ、旧友に再会するかのような静かな期待を胸に出かけていったのですが、そこはもう旧知の場所からは移転してしまっていました。

あらためてネットで移転先を確かめ、とは言っても歩いていける近くだったのですが、移転したというのですから新しい小奇麗なところかと思いきや、以前に負けず劣らず老朽化した見落して通り過ぎてしまいそうなビルにあり、もはやこれもギャラリーのオーナーの趣味嗜好なのであろうかと、思わず私は苦笑してしまいました。

三人がやっとかと思えるような小さなエレベーターでフロアーに降りると、たった一部屋のこじんまりとしたギャラリーいっぱいに彼のモノクロームの作品が掲げられていました。(続く)


2003.07.01


感じたら撮る(メールマガジン:デジセミより)

写真の楽しみのひとつに、感性の記録というものがあります。
・・・っていうか、ぼくはあると思っています。
デジタルカメラが普及して、しかも、携帯電話にまでカメラがついている
今日このごろですので、いつだって手軽に写真が撮れる環境は
もう整っていると思ってもいいですよね。
だったら、ためらわずにシャッターを思うがままにきってみましょう。
自分の欲求にすなおになれば良いだけのことです。

普段の生活の中で、自分を取り巻く環境を興味を持ってひとつひとつ
観察してみると、とても面白いことに気づくはずです。
それは、写真を撮ろうと思って構えることではなく、まず自分の目で
スポット的にイメージカットを切り取ってみることです。
そこで、「あれ、いい感じじゃん」と思ったら、具体的にカメラを向けて
フレーミングしてみます。

たとえば、窓から差し込む光が美しかったなら、その光になぜ感動したのか
と言うことを写真に撮りながら突き詰めていくんです。
そうすると、その光を活かすための演出がしたくなります。
すがすがしい窓辺の光のためにクリスタルなグラスを置いてみたりする。
これだけでは物足らなくなり、何かをそそいでみる。
なんかありきたりに思えて、グラスにくだらん物をいろいろと挿してみる。
すると、この対象よりも影の出方がいい感じなのに気がつく。
これはもともとの動機だった光の美しさに立ち戻ったことになり、
さらにグラスで屈折した光の造形を楽しんでいることに気づきます。

感じたら撮る。そして欲求のままに行動して、何に感動したのかを
写真を撮りながらつきとめていく。
すべての基準は自分の中にあり、他人や一般のことなんか
どうでもいいことなんですよ。
ましてやいい写真を撮ろうとか、うまく見せようなんて考えが
少しでもよぎったら仕切りなおしした方がいい。
大抵のスランプなんて、こんなもんだ。
大事なことを見失っていることに気づかなくなっているだけ。
他人の評価を気にして、すばらしい才能や個性をだめにしちゃった人が
なんと多いことか。

〔デジセミ〕