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MINDSHOOTING ESSAYS -What's Cool Business!?-

■□■第23号■□■

≪号外≫

サイト開設3周年記念コラム
あっと言う間にこのサイト&メールマガジンもはや3周年、されど未だ・・・Vol.2
"What's Cool Business!?" & "What's Cool Life!?"共通)


何時如何なる状況においても、事実はたった一つしか存在しません。しかしその唯一の事実に対して、真実は関与する人の数だけ存在するのです。私達個々の立場や環境そして価値観などの相違により、ある一つの事実に対する個々の認識は、まさに千差万別であるからです。

私達一人一人がそれぞれの真実をただ主張し合っていたのでは、私達の社会生活は混乱と紛争ですぐに破綻をきたしてしまいます。然るに、ある一つの事実に対する人々の共通認識の定義であるところの本質が、私達が健全かつ円満な社会生活を送るうえでは不可欠であると言えます。

しかし、この本質を文言的に定義しようとすること、それは不可能に近いと思えるほどに困難なことであり、その難しさの度合いは、昨今ますます多様化複雑化しつつある社会情勢において、日々さらに高まりつつあります。

同国人同士であっても、世代や立場や育った環境などの要因による価値観の大きな隔たりが否めないのですから、外国人との関係において、共通認識の定義であるところの本質を共有していくことは、さらに難しいと言っても過言ではありません。

しかし、突き詰めていけば根源的に本質とは、実にシンプルな唯一無二のもの、そして誰もがごく自然に共有できる事柄なのです。本質を定義するうえで最も根幹となるべきものは、原則です。その原則とは、自分自身が第三者にされて厭だと感じることを、自分自身も第三者に対してしないようにすることに他なりません。

自分自身が第三者にされて嬉しいと感じることを、自分自身も第三者に対してしていこうとすること、これは原則に非常に近い位置にあるものではあっても必ずしも原則ではありませんから、特に注意を払っていく必要性があります。

 

それ以外のほぼすべての認識は、その程度の差はあれども、原則つまりは物事の本質からは乖離(かいり)したところの真実、つまるところは私達個々の思い込みに近い位置にあるものであると言っても過言ではないでしょう。

 

私達一人一人が、個々の立場や都合に左右される真実に囚われることなく、単純に自分自身が第三者にされて厭だと感じることを、自分自身も第三者に対してしないという原則、換言すれば本質に基づいて物事を捉えて言動していくことにより、国内はもとより国際社会に渦巻く様々な問題を解消していくことができるのです。

見ず知らずの他人に、誰もいきなり理由もなく殺されたくはないでしょう。大切にしているかけがえのないものを、他人に盗まれたくもないでしょう。他人に利用されたり、騙されたくもないでしょう。自分が至極当然にそう感じるように、やはり第三者も至極当然に同様に感じるのですから、お互いに自分が嫌だと感じることを他人にしないという原則つまりは本質を遵守していくことだけで、誰も殺されず、盗まれず、利用されたり騙されない社会に生まれ変わるのです。

この原則つまりは本質に照らして見渡してみると、驚くほど私達の社会は欺瞞と暴力に満ち満ちていることに気付かされます。では、この嘆かわしい限りのこの現状を、どうしたら打開していくことができるのでしょうか。それには、私達一人一人が、自らをいとおしみ大切にしていくことが第一歩であると言えます。自らを尊重できずして、第三者を尊重することなどできるはずもありませんし、自らを尊重し、いとおしんで大切にするためには、第三者や組織や社会に依存従属することなく、あくまで自らの尺度による絶対的価値基準により自らの在り様を判断していかねばなりません。

そのような原則つまりは本質にのっとった一個人は、他の何物にも増して絶対的に尊重されるべき最も価値ある存在なのですし、組織や社会に対しても、たとえ過程においては勝てなくとも、如何なる場合にも決して負けることはない、そして最終的には必ず勝利する最強の存在なのです。

 

他人同士が二人集まれば、それは最小単位の社会であり、積もり拡がって現状の社会ができあがっています。他人同士二人の間で、お互いに自分が嫌だと感じることを他人にしないという原則つまりは本質を遵守していくことだけで、異なるお互いを尊重し合う穏やかな関係をつくることができますし、それが積もり拡がって、平和な秩序ある社会ができあがっていくのです。

さらに、これは原則に非常に近い位置にあるものではあっても必ずしも原則ではない、原則つまりは本質が私達の義務といったような絶対必要条件であるとすればプラスアルファーとも言えるような、自分自身が第三者にされて嬉しいと感じることを、自分自身も第三者に対してしていこうとすることによって、そしてそれを実践する人が増えればそれだけ社会に豊かさが増していくことになるのです。

しかし、悲しきかな私達の社会の実情は、自らに甘く他人に厳しい、自らの在り様を空しくするばかりの客体的価値基準に囚われて、自らをいとおしむ絶対的価値基準の希薄な、依存従属心に支配されて自立心が欠落してしまった個人が蔓延し、強者による弱者の、また競争の勝者による敗者の、欺瞞と暴力による蹂躙に満ち満ちてしまっているのです。

 

他人同士二人の関係、そしてひいては社会全体は、需要と供給のバランスによって成立しています。強者と競争の勝者の論理による様々な欺瞞や暴力といった供給は、弱者と競争の敗者が原則つまりは本質にのっとった一個人に変貌していくことによって、簡単に廃絶していくことができるのです。

悪徳商法業者も、法令に違反した風俗業者も、地球環境を破壊する大企業といえども、利用する人がいなければ、たちまちにして淘汰消失していきます。他国を侵害し武力行使をするような国も、そもそも国民がそうした政策をとる政治家に投票しなければ、そしてまた国際社会が容認しないことでも、戦争すらも根絶することができるのです。人種差別も民族抗争も・・・、私達を取り巻くありとあらゆる諸問題は、原則つまりは本質を遵守する人が増えればそれだけ減少し、一部の例外はあれども圧倒的多数にのぼり常識化していくことにより、およそ世界中から消え失せてしまうことでしょう。(続く)

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