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MINDSHOOTING ESSAYS -What's Cool Life!?-

バックナンバー 0003

●○●第3号●○●

 

否定できる存在などどこにも存在しない
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ある存在という結果がそこにあれば、その存在には必ず然るべき原因や理由が、そしてその存在のその時々の在り様に至るそれまでの経緯が常に存在します。どんな存在にも必ずその意味があり、そしてすべての存在は、突き詰めていくと相互にどこかでつながっていてお互いに影響をし合っていることに気付かされます。つまるところ、すべての存在は周囲との関わり合いの中で存在すべくして存在しているのであり、否定してしまえる存在などどこにも一つとして存在しないのです。

また、ある存在という一つの事実に対しての人それぞれの認識は千差万別であって、極論人の数だけそれぞれの人にとっての真実が存在します。ある存在がある人にとっては絶対的な価値や意味を持っていたとしても、また別のある人にとっては目の前の風景の一部にしか過ぎないかもしれません。

また、同じ人であっても、その人の価値観や物事の捉え方は変化をしていきます。感情の起伏の大きな人であれば、毎日それこそ午前と午後でもう180度認識が転換してしまうこともあるでしょうし、ごく一般的な人であっても、日々の学習や経験などからの成長に応じて物事への認識の仕方は変化していきます。

 

そのようにある存在という一つの事実を、善悪という基準で判断すること自体が困難なことですが、ここで多くの一般的な人々に共通して利益のあることを善とするならば、善の存在の意味の認識は誰にも容易なことと思います。しかし悪の存在、つまり多くの一般的な人々に共通する不利益な存在、例えば犯罪であるとか戦争であるとか・・・、そんな存在にも何かしらの意味があるということには多くの人達は気付かなかったり、気付いても認識することはなかなか難しいのではないでしょうか。

例えば私は若かりし頃、真珠湾を急襲して第二次世界大戦を引き起こした日本の在り様がどうしても理解できず許容することができませんでした。ご覧になった方も多いと思いますが、先日もある報道番組にて、どうして当時の日本が真珠湾を攻撃するに至ったのかという経緯を放送していて、やむを得なかったとまでは思わなかったにせよ、少なくとも相応の原因や理由が存在したということは理解できました。何より驚いたのは、当時のアメリカの大統領が、日本による真珠湾攻撃を事前に承知していたにもかかわらず、何らの対策も敢えてとらなかったというところでした。

政治や経済や組織の論理は、多くの場合かけがえのない個人の存在価値を抹殺しようとしたり、あるいは時として犯罪や戦争などの究極的な悪の存在すらも正当化しようとします。過去の私達の歴史においても世界中で繰り返され、なお現在も、そしてこのままではこれから将来においても、世界中のどこの国の人であっても一個人に立ち返れば誰も争いなどを望まないにもかかわらず、どうしてこうした悲劇が繰り返されていくのでしょうか。それは、そうした悪の存在に背を向けたり否定してしまったりとその存在の意味を認識しようとしない、あるいは認識することができないからだと私は思います。

 

日々の私達の仕事や暮らしにおいても、様々な小さな争いごとは日常茶飯事です。

争いは、自ら以外の他者の存在を認められないところから生じてきます。誰もが自らの存在を他者から認められたいのは当然のこととして、そのために他者の存在を否定するのではなく、自らの存在を認めさせるために他者の存在を認めることさえできれば、そこに争いは生じません。また、自らの否定は他者の否定につながり、その逆も然りです。そして自らと他者の存在を認めることができるということが、私達人類の人類たれる所以なのです。

動物の世界には、生存競争のみが食物連鎖の体系のもとに存在しており、私達人類も物心つかない子供の頃には、あるいは教育すらも存在しない未開な地域で暮らす人々の言動や生活様式においては、動物に近い要素が多く見受けられます。したがって物事を深く考察しようとせず、欲望に忠実にあるいは怠惰に生活していくことは、私達が人間らしさを放棄して動物にかえっていく方向に向かうことであり、動物に近付いていくほど他者否定による争いも増していくことになります。

とは言えども、自らのましてや他者の存在を認めるということは、決して容易いことではありません。だからこそ私達の社会には、様々な争いや多くの矛盾点がこれほど蔓延しているのです。物事を否定しないであるがままに認めるためには、まず愛が必要です。慈しみ愛する気持ちが根底になくして、どうして自らや他者の存在を心から認めることができるでしょうか。ということは、争いごとのない平和な社会を創るためには、私達はすべての存在を慈しみ愛していかねばならないのでしょうか・・・、これはとても困難なことです。

私は普段の生活において、すべての存在を好きなものと好きではないものだけに明確に分けて、嫌いなものは極力つくらないことから努力をしています。物事を嫌うということは物事を否定することにつながっていき、否定からは何も生まれないと考えるからです。好きではないものは、好きなものの何倍も存在していますから、正確に言えば将来は好きになるかもしれないけれど少なくとも今は好きではないものとして、否定はしないであるがままに肯定的に認識し、私の側から主体的かつ積極的には関わりを持とうとせず、そのままそこに放置しておくということを、最低限守るべき自らの姿勢としています。こうした肯定的視点からは、様々な好きではないものの中の好きな部分が見えてきたりもしますし、また好きではないものからこそ多くを学びとることもできます。そして少なくとも私の側の要因からの争いが生じることもありません。

そして私は、私自身をまず慈しみ愛することを第一の目標としています。それは自らの好きなところも好きではないところも肯定的に丸ごと受け入れて、好きではないことを好きなことに一つ一つ変えていく繰り返しです。自らの好きではないことも肯定的に捉えることができないと、自らを慈しみ愛してはいけませんし、自らの存在を慈しみ愛することができなければ、他者の存在も慈しみ愛することはできません。たとえ自らの存在だけを慈しみ愛そうとしても、いずれは自らの存在しか慈しみ愛そうとしない自らが愛せない自らに気付くか、あるいは同様の他者の存在のために自らの存在を否定されてしまうことになります。

 

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≪EPISODE≫

 ▼Series (2)  〜日常の風景〜       
  >file#1-1 サウナにおける人間図鑑 Vol.1

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もともと私の父親がサウナ好きであったため、私は小学校に上がった頃から父親に連れられて時々サウナに通うようになりました。

私の知る限りでは東京の街のサウナは、大型店でも純粋にサウナにせいぜいアスレチックジムが付いている程度ですが、中部から関西地方の街のサウナは、スペース的にも東京の何倍も広く、サウナやジムに加えて水風呂がプールのように泳げるほど広かったり、映画を上映するスペースがあったり、パターゴルフコースやゲームコーナーなどといった付加設備が充実しているところが多く、ともかく子供も珍しくはないのです。最初のうちは私もサウナ浴自体には目もくれませんでしたが、そうした設備にもじきに飽きてしまうため、そのうちに子供ながらじっくりとサウナ浴自体を楽しめるようになりました。

そんな子供の頃から親しんできているためか、もともとの体質なのかは判りませんが、私は20〜30分もの持続浴も可能ですし、数回の反復浴で3キロ程度であれば簡単に体重を絞ることができるほどに大量の発汗が可能です。サウナはフィンランドで発祥した健康法で、自律神経を調整し新陳代謝を促進して、全身の老廃物を汗と一緒に体外に排出させたり、仮想的な運動により身体の適度な鍛練にもなり、疲労回復ならびに体力や抵抗力の増強、あるいは気分転換やリラックス効果など、心身の健康増進効果は大きなものがあります。

私にとってサウナは、食べることとお酒を飲むことと併せて生活の三大要素の一つとなっていて、私は宿泊するホテルにサウナの設備があれば大抵は利用しますし、街のサウナにも出かけていきます。最近では時々通うフィットネスクラブのサウナを主に利用しています。海外のサウナは、男女混浴であったりサウナ室でお酒も飲めたりと開放的なところも多く、それぞれの国の個性が表われて興味深いうえ、裸の付き合い社交の場としての要素は万国共通で、私は多くの友人とサウナで知り合いましたし、その多くの付き合いは現在も続いています。共に大いに食べて飲んで風呂に入る友人達とは、やはりそれだけ関係も深まります。もちろんそれはきっかけにしかすぎず、それからの様々な実際の関わり合いから信頼関係を築いていくにせよ、それでも私の友人にはサウナで知り合った連中が少なくありません。

 

車の運転をしたりゴルフを一緒にしたりすると、その人の思わぬ一面や本質を垣間見ることがありますが、サウナに一緒に入ると、その人の本当のところが実に細かくよく見えてきます。サウナ浴自体は、持続浴をすればするほど相当にきついものですから、その人なりの一定の時間持続浴をすることのみに意識が奪われてしまいがちで、本人が意識しないところでその人の実際の性格や人格の本質が容易に表面化してしまうのでしょう。

じっくりと腰を落ち着けて静かに時を過ごす人、倒れてしまうのではないかと思うほど唸ったり息を荒げたりとただ騒がしい人、意味不明な独り言が口をついて出てしまう人、鼻やよだれを垂らす人、サウナ室内でストレッチや腹筋や腕立てなどに勤しむ人、他人の迷惑も考えずに大声で話す人、垢スリや鬚を剃るような人、社交の場などというレベルを通り越して営業の場と錯覚してしまっているような人などなど、本当に様々なタイプの人がいます。

またそれぞれの地域や施設の規模の大小、グレードの差などで、サウナに集まってくる人達も異なってきます。そしてどこのサウナにもそれぞれ常連の人達がいて、彼等の多くはほとんど毎日のように通ってきます。場所によっては、同性愛者の社交場といったようなまた別の用途で認知されていたり、小さな社会のようにコミュニティーが形成されてしまっていたりと、一見の客には居心地の良くないようなところもあります。

私は郷に入れば郷に従えの基本スタンスで、どこのどんなサウナに出かけても、それなりにその場に順応して振る舞うことにしています。ボクシングの元世界チャンピオンでその後はタレントとして活躍されている方がボスのように仕切っておられて、いつも客の全員にビールを振る舞っておられるようなサウナでは、遠慮なくご馳走になっては栄光の時代の自慢話を聞いたり、あるいはもう亡くなって久しい現在でもとても人気の高いアクションスターの方のフィットネスジム化してしまっているようなところででは、効果的な腹筋の仕方を教わったり、柔軟な発想と大きな包容力を持つゲイの親友とは、同性愛者が集まる若干あぶないサウナで知り合いましたし、利害関係のない趣味を通しての友人達との気のおけない関係の多くは、あちらこちらのごく一般的な街のサウナでの出会いから始まっています。高級ホテルやフィットネスクラブのサウナでは、棚ぼた式にビジネスチャンスに恵まれることもあり、そのうちの多くは現在も良きビジネスパートナーとしての関係が存続していますし、困った時やいざという時にはとても頼りになるその筋の方々との出会いもありました。海外各所のサウナで出会った日本の銀行や商社の駐在員達とは貴重な情報を交換し合いましたし、各国の様々な業種のビジネスマンや自営業者達との交流は、仕事や生活のうえでの視野を広げることにもつながりました。

最近は時代の流れの中で、これまでの主流であった街のサウナという形態から、フィットネスやリラクゼーションなどをトータルに追求する総合的な施設の一部としてのサウナというような形態に次第に移行しつつあり、私も時々通うフィットネスクラブのサウナ以外にわざわざ出かけることはほとんどなくなりました。私は現在のフィットネスクラブでは、相手から話しかけられない限りは誰とも口も聞かず挨拶すらも進んではしないように心掛けていて、平均年齢が異様に高いこのクラブでは正体不明の生意気な若造として認知されています。当然のことながらこのクラブにも、それぞれ独特な大小のコミュニティーと私を含めてどのコミュニティーにも属さない人達が存在し、私はこの様々な人間図鑑をただ傍観者的な立場から興味深く観察しています。

そんなこんなの私の生活の一部であるこれまでのサウナライフを通して出会った個性的で愛すべき何人かの生態を、今後追々と個別にお伝えしていきたいと思います。

 

 →第4号 ▼Series (2)  〜日常の風景〜
       File #2-1 「自分を信じる人だけが救われる」へ

 

CoolShot #3 / 2000.07.04
Title / A Lost Ball On Sunday

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