home  ›› mindshooting essays  ›› what's cool life!?  ›› 0004

MINDSHOOTING ESSAYS -What's Cool Life!?-

バックナンバー 0004

●○●第4号●○●

 

否定できる存在などどこにも存在しない
………………………………………………

自分自身を慈しみ愛すること、それは人が生きる目的と言っても過言ではないほど重要な根幹であって、それだけに決して容易いことではありません。自分自身を慈しみ愛することと甘やかし自己完結的な世界に浸ることは、一見似ていてまったく非なるものです。多くの場合私達は、前者を目指しているにもかかわらず、後者に埋没してしまっている自分自身に気付かされてしまいがちです。

自分自身を慈しみ愛せる人達は、それぞれその形は異なるにせよ、絶対的な価値基準を持っています。その絶対的な価値基準とは、常識や習慣などにとらわれない、また様々な他人の価値基準や判断に振り回されない自分自身の尺度による価値基準と判断によって培われていきます。自らの判断に自らが責任を負うということが重要なことで、その時々においての一つ一つの判断が正しいか否か、あるいは何らかの成果につながるかどうかといったようなことは、さほど重要ではありません。過ちを犯してしまった際には、そこから学んでいけばよいことであって、過ちを犯してしまうことを怖れるばかりにその時々の自らの判断に沿っての言動を躊躇あるいは回避することは、自分自身を慈しみ愛することからどんどん人を遠ざけていきます。

最悪なのは自分自身への責任を回避して、他人の価値基準あるいは判断に沿って言動をしていくことです。それは何より楽なことですし、大きな失敗を回避し易いばかりか、失敗をしても第三者に責任転嫁をすることもできてしまいます。本質的には、自らのすべての言動はもちろんのこととして、自らに起こることのすべても自らの責任であるはずなのですが、そのことに気付かないあるいは気付いてもそう考えないような人達が世間には大勢存在しています。また、一時的な成果のようなものも手に入れ易いことも多いかもしれませんが、結局は自らのかけがえのない存在を自らが否定していくような依存的人生は、最終的には何らの価値も自らに残せないという結末につながっていくことになります。

また、自分自身の価値基準あるいは判断に沿って言動していけたとしても、その根拠が自分自身の存在以外の要素にある場合、たとえばカネやモノ、社会的な立場や実績などのような、それだけの何かを有していることあるいは成し遂げたことに応じての自らへの慈愛も、よくありがちな多くの人達が陥りやすい錯覚に過ぎません。例えば、社会的経済的に順風満帆の時も苦境に陥っている時も、その人は同じ人で変わりはありませんし、今日のプータローが明日の著名作家や画家あるいはミュージシャンになるやもしれず、また極論いつ有事となるか、さらには事故や病気で命を落としてしまうやもしれず、明日の運命は誰にも判りません。人の価値はその人の存在とその在り様によってのみ決まってくるものであって、その人が残すものや持てるもので判断されるべきものではありません。

そこに様々な何かが存在しているという事実だけが、私はこの世の中における唯一かつ絶対的な価値であると考えています。存在している何かを肯定するのも否定するのもそれぞれの人であって、そのどちらの判断もその人にとっては真実であるはずです。こうして突き詰めて考えていけば、どんな存在であってもその存在という事実自体だけは否定してしまうことはできないという結論に至ります。肯定も否定も、ともかく何らかの存在への誰かの二次的な意味付けには、人がそれぞれ異なる存在である以上、決して絶対的な万人に共通する評価というものは存在しえないからです。

人は自らと異なる存在、また特に自らが理解できない存在に対して、まずは警戒心を、次にその延長としての恐怖心を抱いてしまいがちです。それがさらに増長すると敵対心に、そしてさらには攻撃心に変化していき、やがては争いへと進展していきます。その度合いが大きくなれば、それに応じて争いの深刻さも規模も大きくなっていくのです。私達の社会を俯瞰してみると、私達が抱える様々な社会問題の発生の根源が、前述のような自らの存在と他者の存在価値を多くの人達が認識できないところにあることに気付かされます。ところが私達は、生じてくる様々な問題に対して表面的な対症療法に終始してしまい、本質的かつ根元的な問題解決をどうしても先送りにしてしまいがちです。大抵の場合、問題の解決の先送りは、その形を変えさらに深刻度を増して将来に顕われてきますから、日々様々な問題を増幅させる悪循環からなかなか脱却できずにいることに、私達はさらに強い危機感を抱くべきであると私は思います。

もはや現代の国際社会、なかでも日本をはじめとする民主主義と自由競争資本主義社会においては、それぞれの人達のそれぞれの基準による様々な活動の総合として、たとえそれが政府といえどもその方向性や成長への方法論のコントロールが可能な範囲を大きく逸脱して、もはや一人歩きをしているかのような状況です。とはいえでも、一定の基本的なルールや仕組みの上に成立しているのが私達の社会でもあるわけですし、相互理解と相互尊重の意識ある個人が徐々に増加していくことで、私達が抱える多くの社会問題はほとんど自然消滅していくかのようにスムースに解消していけるものと私は考えています。

 

 →第5号へ

 

 

………………………………………………………………………………………………………………

≪EPISODE≫

 ▼Series (2)  〜日常の風景〜       
  >file#2-1 自分を信じる人だけが救われる

………………………………………………………………………………………………………………

多くの人は、精神的にかつ経済的に自立ができていない頃には、貧困や両親の離婚あるいはいじめのなどの経験といった例外的なケースも一方にはままあるにせよ、多くの場合強い自己愛に包まれて生きています。まだ社会に出る前の何らの苦労も知らない頃には、自らの人生が大きな限り無い可能性に満ちているうえに、また自らの能力にも無限の深さを感じて、自らには自らが自由に選択できる人生のステージが様々に用意されているように感じられてしまう、それはまさに若さの特権とでもいうべきものです。

もちろんそれは、幸運なあるいは日々の努力を惜しまないような一部の人達にとっては必ずしも間違いではありませんが、大抵の人達は社会人になって現実の厳しさを知り、年齢を重ねるにつれて様々な苦難に直面していくことになります。そうした厳しい状況下において、若かりし頃には誰もが抱いていた自己愛あるいは自尊心をどこまで抱き続けていけるかということが、人格や能力の高さの度合いとでもいうべきもので、年齢を重ねてもその人本来の夢や志を失わないでいられる人というのは、世間には本当に少ないものです。多くの人は、自ら自身や周囲に対しての様々な言い訳をしつつ、自らに都合の良い価値観や思想を知らず知らずのうちに創り上げていることにすら気付かず、何らの危機感も感じないまま日々の暮らしに埋没してしまっているのが現状であろうと私は考えています。

 

私の友人の一人で、姉妹メールマガジン”What's Cool Business!?”創刊号のエピソード(こちらでご覧になれます)に登場した私の学生時代からの友人の一人である積極的かつ主体的なリストラ対策に成功した不動産会社の社長は、つい数カ月前のことですが、自らがオーナーである関連会社を含めた長年築き上げてきた事業をすべて精算して、突然引退をしてしまいました。

またいずれ別の機会に何らかのエピソードとしてその詳細については改めて触れていきたいと思いますが、彼の突然の引退の理由に簡潔に言及すれば、これまでにがむしゃらに仕事に打ち込んできたこれまでの彼の人生における意味を見失ってしまい、反面そのためになおざりにしてきたあるいは失ってしまったものの意味の大きさに気付いたということのようでした。

彼は某有名私立大学の政治経済学部の出身で、在学中から既に旅行企画会社を経営しており、個性的な旅行の企画を自ら立案し、そのツアー企画への客の多くを自ら集め、様々な旅行会社に主催させてはコミッションをとるような事業で当時の学生ビジネスとしては他を突出した大きな収益をあげていました。

私の当時のガールフレンドの一人の婚約者として知り合った頃には、時折雑誌にとりあげられたり、テレビやラジオにも出演していたりと、既に彼は広く大学生の間では有名な存在でしたし、何より異様なまでに羽振りが良く、宵越しの銭は持たない的な金離れの良さには潔さすら感じるほどで、当時の私には彼は別世界のはるかに大きな人物のように思えたものです。

そんな若かりし頃の彼は、物事を楽天的にとらえて執着心も持たない、また人当たりも良い大らかな人物でしたが、それから年齢を重ねるごとに徐々に性格が変わっていきました。仕事第一それも結果尊重主義の彼は、厳しい競争に勝ち残り事業を拡大させていくためかと思われますが、次第に慇懃さ卑屈さが、さらには猜疑心や嫉妬心が目立ち始めるようになり、徐々に陰気さを増していきました。

その後の彼は、旅行を中心とした企画制作会社と並行しての不動産事業をはじめ様々な事業を手がけましたが、どの事業についても失敗知らずだっただけに、”What's Cool Business!?”創刊号のエピソードでの私も関係したリストラ再建策を実施せざるをえなくなった状況は、彼にとっては自らの許容の範囲を超えた始めての挫折だったように思います。

それからの彼は、自らの企業グループの再建が成功してからも、もはや以前とは随分と人が変わってしまい、部下達も次第に彼に一定の距離を置くようになって、最近ではすっかりと裸の王様状態になっていましたから、その時の彼の事業の精算ならびに引退の決意に私は賛同し、周囲の様々な強い抵抗にあったにもかかわらず、ほんの一部の彼に信頼を寄せる部下達と協力して彼の決断を強力に後押ししました。赤字の企業を精算することは一般的としても、順調に推移している企業の精算などは世間にほとんど例はありませんし、その過程では関係者の思惑や駆け引きが渦巻き、様々な障害の連続の日々が続きましたが、それでも精算作業はほどなく終了しました。

つまるところ彼は、それまでの自らの脇道に逸れてしまっていた間の形跡を消殺してしまいたかったのだろうと思います。自らだけが退いて、会社は部下の誰かに引き継がせるなり、信頼できる後継者が見当たらなかったとしても第三者に売却するなどの、廃業するよりはもっとスムースな方法もあったのですから。しかし、今では私もその彼の決断に沿って廃業したことが、結果的にも最上だったと思うようになりました。

それからの彼は、失ってしまった自分自身を取り戻すために日々奮闘しています。そんなまた新たな自分自身と長年染み付いてしまった自ら決別したはずのもう一人の自分自身との葛藤の日々を過ごす彼を、私も付かず離れず見守りながら、あの眩しかった彼に再会できる日を心待ちにしているのです。

 

 →第5号 ▼Series (2)  〜日常の風景〜
       File #2-2 「自分を信じる人だけが救われる Vol.2」へ

 

CoolShot #4 / 2000.09.02
Title / At Before Dawn

‹‹ prev next ››