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MINDSHOOTING ESSAYS -What's Cool Life!?-

バックナンバー 0007

●○●第7号●○●

☆☆お詫びとお知らせ☆☆

読者の皆様各位

読者の皆様には、またまたすっかりとご無沙汰してしまい、誠に申し訳ございません。

先日メールマガジンの配信をお願いしている先の一つに、あまりに発行周期が長いために登録を抹消されてしまい、これからは少しずつでも発行周期を短くしてまいりますと皆様にお伝えてしたにもかかわらず、以前にも増して周期が長くなってしまいました。

実際のところここ数ヶ月の間は、特に多忙を極めているのですが、それにしても不定期ながらお休みもきちんととっているわけですから、決してまったく余裕がないわけではないのです。

しかし、天気が良ければポタリングやバードウォッチングに出かけたり、悪ければ普段なかなか追い付かない資料のデジタルクリッピング、あるいはPCのメンテナンスやファイルの整理などと何かと雑用にかまけているうちに、すぐにお休みも終わってしまいます。

また、普段も移動の途中や打ち合わせの合間などに、よく時間が空きはするのですが、ほんの1〜2時間程度の時間では、とても落ち着いてこのメールマガジンの原稿を書けるものでもなく、そのうえ最近では、明日やれることは今日やらないというライフスタイルがすっかりと定着してしまっており、一日また一日と先送りしているうちに、あっという間に数が月が過ぎ去ってしまっているような始末です。

かといって、もともとロングスパンで計画しているこのメールマガジンの今後の展開上、これまでのコンセプトやスタイルを変更してまでも発行周期を短くしていくのも忍びなく、苦肉の策としてプライベートサイト“What's Cool!? by POPO”上にnob's diaryのページを新設し、こちらで普段少しずつ書き溜めているこのメールマガジンの元原稿や日々の出来事などを一日数十行程度にまとめたショートエッセイを、可能な限り毎日掲載していくようにさせていただくことにいたしました。

ここしばらくテスト的に運営してまいりましたが、なかなか毎日とはいかないまでも、このページは日々頻繁に更新させていただいておりますので、気長にこのメールマガジンにお付き合いいただきながら、下記のURLをブックマークしていただき、時折覗いてみていただけますと、たいへん幸いと存じます。
http://www.globers.gr.jp/nob/diary.html

またご希望があれば、日々こちらから独自配信もさせていただきますので、その節には件名と本文にdiary配信希望とご記入のうえ、配信ご希望先メールアドレスを下記までお知らせくださいませ。
nob@globers.gr.jp

こんな調子の私ですが、一度始めたことはとことんの精神で、今後も永々と続けてまいる所存ですし、数十号を迎える頃には、それなりに内容的にも充実した利便性も持たせたプライベートサイトとメールマガジンにしてまいりますので、何卒気長にお付き合いを願えますと喜びにたえません。

2001年9月吉日

POPO

 

巡り巡ってまたふりだしに
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誰しも人はそれまで営々と蓄積し築き上げてきたものに執着しないで、すべてを捨て去ってしまうことには強い抵抗感を覚えるものです。

ひたすら一つの道を極めるために知識や経験や技量を積み重ねていく職人的世界や、絵画やデザインや音楽などといった創造的な世界においては、極めるなどという到達点はそもそも存在しない限りのないものであるかのような認識が一般的かと思いますが、果たしてそうなのでしょうか。

私は、そうした職人やアートの世界に限ったことではなく、人それぞれの人生自体が創造的なものであり、日々のすべての言動の蓄積こそが創造そのものであると、またその創造を極める到達点とは、それまでの蓄積すべてを捨て去った無の状態、つまりスタート地点と同一なのだと考えています。

人の存在と行為のすべては、円運動と同じです。どこがスタート地点でどこが到達点なのかも判らない、どこもかしこもがスタート地点でありそして到達点でもある状態においてこそ、まさに人としての悟りの境地、すなわち心豊かな幸せをつかみとれるのだと確信しています。

 

仮にある一つの点をスタート地点としましょう。それは人がこの世に生を享けた瞬間と考えてもよいですし、あるいはある日思い立って何かを始めた瞬間と考えても構いません。

いずれにせよ、そのスタート地点から、人は考え悩み、試行錯誤を重ね、知識や経験や技量を積み重ねていきながら、究極的な到達点を目指していくわけですが、その日々はまた一つ一つの点であるわけで、その人の努力の度合いが大きいほど多くの点が生まれ、スタート地点の点からつながって、やがてそれは線に変わり、そして日々その線は徐々に長く伸びていくことになります。

その線の向かう方向が重要なのです。その線が、一本の直線であったとするならば、その線の向かう先はまさに無限に続いていくわけで、決してどこかに到達できるものではありません。ちょうど前述のような極めるなどという到達点はそもそも存在しない限りのないものであるかのような一般的認識がこれにあたります。

その線の方向が横に少しでも逸れていれば、またスタート地点に戻ってこられる可能性が生じてきますが、永遠に迷走してしまったりと戻ってこられる確率は非常に少ないといえますし、小さな円を描いてスタート地点に戻っても、そこにはそれだけの小さな円という成果しか残りません。理想的にはある程度大きな円を美しく描いて元に戻ってきたいものですが、他の人や物の存在との影響もありますし、なかなかそのようにうまくはいきません。

ただ、私が皆さんにお伝えしようとしているようなすべての存在の摂理は、円運動であるという事実を教えられていたとしたらどうでしょうか。たとえ小さな円であっても、出発点と到達点が結ばれていたとするならば、その小さな円の線上を自由自在に移動しながら、その線を形成する一つ一つの点の間に、また新たな一つの点を書き加えていくことで、その小さな円はやがて大きな円へと、そしてその人の生のある限りその成長は無限に続いていくことになります。

小さな円を自らの生の存在の証として残す人もあれば、限りなく大きな円を残す人もあるでしょう。それは、その人の持って生まれた才能や能力、あるいは後天的な努力の度合い、あるいはそれぞれの人を取り巻く様々な環境の違いによって変わっていくものです。例えば、その人の示した人生観や方法論に賛同する第三者が、その人の一つ一つの点を増やしていくことに協力を惜しまなかったとしたならば、その人と第三者が協調して描く円は、その第三者の数に比例してとてつもなく大きなものとなっていくでしょう。

 

人はこの世に生を享けて、そしていずれ死という終わりを迎えます。人に限らず、この世のすべての存在には、始まりと終わりがあります。興るもののすべては必ず滅びるのです。現在最大の存在と考えられている大宇宙とていずれ終わりがあるのです。だからこそすべての存在は尊くかけがえのないものなのですし、その存在の在り様の過程によって生まれてくる別の存在一つ一つも、また同じように尊くかけがえのないものなのです。

そうしたあらゆる存在の一つ一つが現す一つ一つの点が、私達の存在を、ひいては大宇宙の存在を形成しているのですから、すべての存在にはかならず原因と意味があって、すべての存在はどこか何らかの形で相互につながっており、いかなる存在も決して否定できるものではないという究極の真理に辿り付くことができるのです。

 

 →第8号に続く

 

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≪EPISODE≫

 ▼Series (2)  〜日常の風景〜       
  >file#2-4 自分を信じる人だけが救われる Vol.4/鬱の自己増殖と拡散

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少し前の某新聞社系時事週刊誌に、タイトルは忘れてしまいましたが鬱のつながりについての記事が掲載されていました。鬱病を自称する人達が増えていて、どこの病院がいいとか、どの薬が効くとかいった話題でつながり盛り上がる集団が、現実社会と仮想世界のあちらこちらに出没しているとのこと。

私の愛する女性の一人は、自らに自信が持てない多くのコンプレックスに支配され、また感情の起伏が激しく、調子の良い局面もあって病気というほどでもありませんが、一度マイナーな局面に陥ると、あきれてしまうほど長い間どっぷりと浸かってしまってなかなか戻ってきません。

彼女の友人に、その人は私もよく知っていて時々食事をしたりするのですが、まさに自称鬱族の代表のような人がいます。この人は実際にあちらこちらの精神科をはしごしていて、様々な副作用に苦しみながらも日々いろいろな薬を欠かしたことがありません。

私の印象では逆に躁の方かと思えるほど普段は明るく元気で、じっとしているところを見たことがないほど、日頃はフルタイム総合職としての仕事と主婦業の傍ら、各種習い事やスポーツクラブ、ちょっとした連休があればすぐに海外旅行と、見ているだけで疲れてしまうほどパワフルに休む間もなく活動しています。

その女性が、私の愛する女性の一人に、このところすっかりと落ち込んでしまって日々メールで相談をしてきているのだそうです。その女性曰く神経症のそのまた別の友人の女性に対して何の力にもなれない自らの無力さについて、すっかりと悩み落ち込んでいるようなのです。・・・・・、それを聞いて私は、呆れ返ってしまってもう言葉もありませんでした。

こんなふうにして、自称鬱の一人一人が自ら創り出していく鬱の種が次第に日々増殖し、同様の自分自身に自信が持てず愛せない人達の間に伝染病のように拡散していくのだろうかと、このことを考えるとため息ばかりの気分になってしまいます。

 

精神病であるか否かの境界線は実に曖昧ですよね。何かの書物で読んだ気がするのですが、精神病であるか否かは日常生活に支障が生じるか否か、第三者に迷惑や危害を及ぼすか否かによって区別されたような記憶があります。そういう観点からすれば、世間には精神病とされないながらも、された人達よりもずっと特異な人達が存在することになりますし、事実私の周囲にも本当に特異な人達が大勢ごく一般的な日常生活をおくっています。

前述の自称鬱族の代表のような女性の他にも、嘘と現実の区別がまったくつかなくなってしまうほど極度の虚言癖のある男性、自意識過剰をはるかに通り越した基準に達しているところは共通しているのですが、自らを唯一絶対の神の子と信じきっている男性や逆に悪魔の化身と信じきっている男性、あるいはすべての異性に自らが注目され狙われていると信じ込んでいる女性、あるいはまた自分自身と自らが許容できるごく限られた周囲のもの以外には手も触れられないような潔癖症の男性や逆に数ヶ月にもわたって入浴もしないばかりか歯磨きすらしない女性などなど、特異な人達が第三者からはそのように認識されないままごく普通に暮らしています。

私とて異常なまでの汗かきで、極端な話あるコンビニに入っただけで条件反射的に滝のような大汗をかいてしまうといったような充分に特異な人です 。

人間は本来精神的に実にもろい存在です。(余談ですが、肉体的にも単独では生命を維持していくことのできない唯一の動物でもあります)逆に一部の例外を除いて、ほとんどすべての人達が多かれ少なかれ、またその程度の差こそあれども、何か心の闇や自らが許容できず触れられたくない秘密の恥部を抱えて生きているのでしょうし、それを人格や努力で解消していける人もいれば、逆にそれらに囚われ増幅し自らが制御可能な限界を超えて精神に異常をきたしてしまうような人もいます。

いずれにせよ、先天性のものはともかく後天性の精神病のほとんどは、患者自身が創り上げた自らの虚像というもう一つの本質の表面への実際の現れなのだろうと、私は思います。

 

基本的に自称鬱族の人達、少なくとも私の周囲の彼らの多くは、本来とても知的な人達なので、改めて他人に指摘されたり、お節介にも忠告などされなくとも、自分達の問題点には気付いているように思われます。その問題点がコンプレックスとなって、それらを解決あるいは解消できなくて、苛立っているように見受けられます。

また同時に自らの才能や能力に強い自負心を持っていたり、完璧主義者であったり、ナルシスティックな自己愛に支配されていたりする彼らが、私の周りではよく目立ちます。

いずれにせよ、触らぬ神に祟りなしではありませんが、何かこちらから働きかけたところで、それらはほとんどの場合マイナスを増長していく結果にしかつながりませんから、自称鬱族の人達に接するコツは、ただ我慢強く静かに見守る以外にはないように私は思います。でも、かといって彼らに距離を置きすぎても、また極端に淋しがったり僻んだりもしがちですから、なかなか難しいのですが・・・。

このところのあるロードショーのCFのコピーに、「人は生きているただそれだけで価値がある」といったようなくだりがありましたが、本当にそのとおりだと私も思います。

私達一人一人の存在に優る存在など、この世界のどこにも存在しませんし、私達一人一人は唯一のかけがえのない存在であり、それぞれの存在に優劣もありません。価値観は多様化して人の数だけ存在しますし、さらにそれらそれぞれの価値観もまた変遷します。たとえ第三者あるいは自分自身が、いつどのような理由や意味付けをしようとも、私達一人一人の存在の在り様という事実は唯一絶対のものなのです。

たかが人生、されども人生。明日やれることなら今日はやらない。持たざることこそ心の豊かさにつながる。そんな考え方や生き方に、私達のこれからの時代のライフスタイルへのヒントが隠されていると私は確信していますし、自称鬱族の友人達にも、彼らがネガティブに捉える彼ら自身の存在の価値に気付いてほしいと願っています。何故なら彼らの嫌う彼ら自身を、彼らが望む彼ら自身よりも私はずっと好きなのですし、素敵だと思うからです。

 

ストレスコントロールはなかなかに難しいことです。基本的には完全に放置あるいは逃避する、もしくは立ち向かって乗り越える以外に対処の方法はありません。前者を実践するにはある意味特殊な人間性が要求されますし、後者はまた日々の膨大な労力の蓄積が必要になります。

そのどちらにも徹しきれない中途半端な状況において、様々なストレスが生まれ増幅していくのでしょうし、そしてまた、傍から見ればごく一般的で常識的と思われるような現代に生きる多くの人達が、この中途半端な状況の中でただ漫然と日を過ごしてしまっているのが実情ではないでしょうか。

私を知る人達にはなかなか信じてもらえない場合が多いのですが、私も実際のところではとても神経質で気が小さな心配性です。

私の場合は、ストレスに立ち向かって乗り越えるタイプで、およそ私自身の認識可能なすべての範囲にわたって、私自身の価値基準による私なりの原因と結果、ならびに様々なその間の経緯の分析と判断を怠りません。備えあれば憂いなし、直面しうるあらゆる局面に備えた対策が準備できていれば、いかなる場面においても冷静かつ客観的な判断ができます。

知識にないあるいは理解できない事象には、不安や恐怖感からストレスにつながりがちですが、それらのストレスも、知り解ってしまうことで克服し、ひいては自らの糧にしていくこともできます。

鬱に限らず様々な疾病の主因の一つであるストレスとは、どこからどのようにして生じてくるのでしょうか。

根源的には、自らの価値観によるこうありたいこうしたいと願う自らの理想と、実際に自らが身を起き、そして様々な局面に直面している現実世界の実情との間の大きなギャップに原因があるように思われます。

その理想と現実の間の大きなギャップに直面する際に、それらをどのように認識判断をし、どのように対していくかの基準と程度の違いが、そのままそれぞれの人達のストレスの大小につながっているのでしょう。

様々なストレスを抱えること自体は、決して悪いことではありません。むしろそれだけ様々な事柄に気付きそして理解できることは、それらストレスをバネにしてさらなる人間的な成長につながりますし、また不要なストレスであれば解消していく術を身に付けることで精神的強靭さを養うこともできます。重要なのは、ストレスへの対し方なのです。

才能や能力、あるいは容姿、さらには富や名声といったものを持てることが、自らの自尊心や安心感に、そしてさらに第三者とのお互いの評価につながっているという事実に対して疑問を感じることのできる人は、世間に決して多くはありません。何故なら幼い頃から私達は、そうした偏った価値観を教育の過程で深く植え付けられ、他人を蹴落としてでも競争に勝ち残ることをよしとしてしまうような社会に生かされているからです。

才能や能力、あるいは容姿といった先天的な要素の有無は、運不運以外の何物でもなく、その人の人としての存在価値には本来何ら影響するものではありません。富や名声などといった要素とて、世襲により生まれながらにして持てる人も世間には多く存在します。

そうした持てること、あるいは持てる人を否定するわけではありません。持てる人本人はもちろんのこと、社会の通念において、持たざる人が軽視されたりただ利用されたりしてしまうことが大きな誤りであるということを、私は強く主張したいだけのことです。

 

 →第8号 ▼Series (2)  〜日常の風景〜
       File #2-5 「自分を信じる人だけが救われる Vol.5/鬱の自己増殖と拡散・続編」に続く

 

CoolShot #7 / 2001.09.07
Title / The One Slight Existence

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