バックナンバー 0008
●○●第8号●○●
巡り巡ってまたふりだしに・続編
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以下のエピソードがまた長編になってしまいましたので、次号に順延させていただきます。
→第9号に続く
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≪EPISODE≫
▼Series (2) 〜日常の風景〜
>file#2-5 自分を信じる人だけが救われる Vol.5/鬱の自己増殖と拡散・続編/ささやかなプライド
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人が心豊かに幸せに生きていくために必要な基本的要素、それがささやかなプライドです。
それは、何も特別なことではない、人としてごく当然の良識に沿った事柄をどの程度守っていけるかという、そのことを第三者に対して自慢ができるほどのことでもない、ごくささやかな基準のプライドです。
されども、そうしたささやかなプライドを日々蓄積していくためには、何よりもまず判断や評価の基準を自分自身に求めていく力量なくしては始まりもしませんし、その継続には強い忍耐力も要しますから、これは決して容易なことではありません。
私のささやかなプライドなど、一つ一つはほんの些細なことばかりですが、それら些細なことも守り続けていれば、やがて主義主張の基準に達しますし、ひいては日常の言動の根幹となり、自らの人生の指針へと変わっていくのです。
ささやかなプライドは、一度でも少しでも曲げてしまうと、悔い改めてやり直そうとしてもなかなか難しいものですから、どんな些細な事柄でも一度決めたら守り通すことが重要です。
誰も見ていないから、決してばれたりしないからと、誘惑の魔の手は常に伸びてきますが、他人はごまかせたところで、自分自身は決してごまかすことはできないのです。様々な誘惑に打ち克って、自ら一度決めたことをやり通していく積み重ねから、自らに対しての誇りは生まれ、成長し、そして自らへの心からの愛情が生まれてくるのですし、そして自らが愛せて始めて第三者も愛せるようになり、さらに心から愛する人に対しては、自らに対して同様に厳しくも、そしてリスクもできるようになっていくのです。
風俗には行かない・・・、
仲間内での飲み会の後などの誘いを断る時くらいにしか改めて人に話すようなことでもなく、またこんな当然の良識であって人に自慢できるようなことでもないのですが、普段のそんないかなる誘惑や、若かりし頃の一時の強い欲求にも負けないで守り続けてきたこんなことも、私のささやかなプライドの一つです。
現状においては、供給側にも需要側にも、自らの尊厳と責任のもとでそれを必要とする人達も存在するのですから、風俗産業の存在自体を否定はしません。私の友人にも風俗嬢もいますし、彼女達もプライドを持って自ら望んでそれぞれの職に就いていますし、そのことを人に隠したりもしません。
ただまだ精神的に幼い自らの言動に責任も持てないような若者達が、安直に高額の報酬につられてしまったりするのは困りものですが、それとてまずは本人の、そして結局は雇用側と需要側の大人の問題であって、その職業自体を否定する根拠にはなりえません。どんなことにしろ、選択肢は多いにこしたことはありませんから。
女性を金銭でどうこうしようなどとはまともな大人のすることではありませんし、またアジアをはじめとする諸外国にまで出かけ、旅の恥はとばかりの中高年日本人男性の利己的で横暴な言動は、まさに目にあまるものがあります。
そうした女性の尊厳を否定してしまうような発想は、その人自身の人格を蝕み、人間関係を、そして私達の社会を荒廃させていきます。
先日もちょっとした男女十名ほどの集まりの席で、カンニングと万引きの経験の有無についての話題となり、驚いたことにどちらも経験がなかったのは、ある二十代の女性と私の二人だけで、逆に経験のある他の全員から変人扱いを受けてしまいました。
経験のある人達に共通していたのは、ばれなければOK、カンニングなどは他の誰もがしていること、万引きとて、一度や二度の経験は誰にでもあることというような意識でした。
それにしても、結局のところすべてはプライドの問題です。他人にばれなければ・・・、などという次元の低い発想がまかり通るのであれば、私達の社会は不正と犯罪で、そして争いで満ち満ちてしまいます。それを食い止めるのは、私達個人一人一人のささやかながらも強い自尊心に他なりません。私達一人一人のそんなささやかなプライドの総合が、公平かつ公正な、そして社会的弱者や競争の敗者に優しい、二十一世紀における明るく平和な国際協調社会を形成していく原動力となるのです。
いくらそのように私が主張したところで、そんな当たり前の道徳論と鼻で笑うような人物もその集まりの席にはいましたし、他のカンニングや万引きの経験を持つ人達にも、あまり説得力を持たなかったような印象でした。
それでは逆に自分が被害者の立場に身をおかねばならなくなったとしたらどうでしょうか。自分が気が付かないうちに所有しているものをこっそり盗まれてしまったとしたら、あるいは長年準備を重ねてきた研究や事業計画などを、人に盗み見られて先に発表されてしまったとしたらどうでしょう。誰もが自らがそういう被害者の立場には立ちたくないと思うはずです。こんなふうに自分が人にされたら嫌だと思うことや許せないことは、自分も人にしない、これが基本的な社会のルールの根幹です。
これはまた極端な例かもしれませんが、以前あるテレビの討論番組にて、若者が人を殺すことが悪いしてはならないことだという考えが理解できないと発言していることに対して、その場にいた大人達の誰もその少年が理解納得できるだけの論理的説明ができませんでした。
その際にも、またその番組の続編においても、様々な大人達が様々な論理を展開していましたが、私が聞いていても説得力がないという印象でした。何故なら、殺人自体は自然な行為で、悪いことではないのですから・・・。
殺人自体は悪いことではない・・・、極論過ぎましたね。人類も人であるまえに動物なのですから、自己防衛と闘争本能は、生まれながらにして備わっています。過去の歴史も証明しているように、そしてまた今回のNYの事件においても、世界の潮流は武力行使を、そして行使された側はまた報復を正当化します。そしてさらにまた報復が繰り返され、これでは平和な国際協調社会はいつまでたっても構築できません。
今回のNYの事件を契機として、今回こそ異質なお互いを尊重し合い、協調し合い、バランスのとれた国際的経済均衡をはかるために、社会的弱者と競争の敗者を救済していく仕組みづくりをしていく方法論を模索していくことこそが、唯一多くの犠牲者の死を無駄にしない道であると、私は確信しています。
にもかかわらず、報復のための武力行使を、非難し回避させる努力をするどころか、自分達までそれに加わろうとしている西側世界の悲しき現状には、深く失望の念を隠せませんし、そうした一方で若者達に人を殺すことの悪をいくら説いたところで、何の説得力も持ち得ないのはごく当然のことです。
人を殺してしまうしまうことの是非を問うことは、ほとんど意味のないことだと私は思います。凶悪な犯罪を犯せば極刑に処される、人から襲われれば正当防衛という殺人が認められ、有事においては殺害する人の数が多いほど賞賛され、宗教の名のもとにもまた殺人は正当化される・・・、そうした矛盾をあげだせばまさにきりがありません。
物事の善悪の基準は、時代や環境あるいは文化などの違いによって常に変遷するのですから、その是非で判断するのではなく、自らがそれを許容できるか否かによって判断することが普遍的な基準であると私は考えています。
ほとんどの場合私達は、自らがまったく預かり知らない理由で、縁もゆかりもないアカの他人に、ある日突然殺害されることを許容できません。自らが許容できないことを他人に強要しない、これが大勢の私達が共有する社会の根源的かつ単純なルールですし、そのルールを遵守できるか否かは、私達自身のプライドの持ち方の程度によって左右されます。
ささやかなプライドを養うもととなるのは、自らの絶対的価値基準です。ともすれば私達は、既存の常識や習慣に対して疑問を持つこともなく、第三者の自らに対する評価を気にするがあまり第三者の価値基準に迎合してしまったり、あるいは初めから著名人など第三者のそれをそのまま自らの基準としてしまったりと、そうした他者依存的姿勢からは、決して自らの絶対的価値基準は生まれてはきません。
自らの頭で考え、また直感あるいは想像力といった様々な感性を働かせて、自らがどこから来てどこに行きたいのか、自らがやりたいことや手に入れたいものは何であるのか・・・、そうした最も基本的な命題に自らが答えを出していくことの積み重ねの過程にこそ、ささやかなプライドの蓄積があり、やがて自らが心から愛することのできる、そして他人をも愛することもできる自分自身に出会うための道筋を見つけ出すことができるのです。
学歴や肩書きを偏重してしまうばかりに、幼い頃からの、そして現状社会における過剰な競争社会を増長させ、また組織特に大企業や国家といった体制を偏重し依存してしまうばかりに、自分さえよければという排他的自己本位的発想しか持てず、自らの人格形成をおろそかにしたまま成長できないでいる大人子供達が広く社会に蔓延しています。
また依存精神は、依存する対象にはさらなる強大さを求めるのが自然ななりゆきですから、ますます体制からの個人の精神的自立は疎外され、個人一人一人が自らの絶対的価値基準を創りあげていくことはますます困難となっていくという悪循環からなかなか脱却できません。
何も体制の存在とその存在の在り様を全否定すべきだということでは決してありません。良きにしろ悪しきにしろ、現存の体制の存在とその在り様によって、現状の私達の社会は成立しているのですし、その中で私達個人一人一人も生かされているのですから。
否定からは決して何も生まれてはきません。その否定は新たな否定につながっていくだけのことです。何故なら否定できる存在など何一つとして存在しないからです。
すべての存在という結果の一つ一つには、必ずそのそれぞれに原因が、そしてそれら一つ一つの結果に至る経緯というものが存在します。そしてあらゆる存在の一つ一つは、どこかでお互いに影響し合っていて、何一つとして何物にも関係しないで単独では存在しえないのです。
現状世界の最大の懸案事であるニューヨークの事件も、こうした結果が生じるには、やはりその原因とこうした結果に至るまでの経緯というものが存在するのです。現時点においてのみの事象に囚われすぎて、その本質に目を向けることなくして、根源的問題解決ははかれませんし、西側先進諸国とイスラム世界がお互いにお互いを否定し合っていたのでは、実質的な話し合いすらも成立しえません。異質な存在としてのお互いを尊重し合うこと、またそれは私達個人一人一人のささやかなプライドの総合としてのみ実現しうるのです。
人間とは、もともとは様々な欲望に支配された動物です。
生まれた時から野性動物に育てられれば、ほとんど野性動物同様に成長するわけですし、実際に何年か前にそうした子供が発見されるという事件もありました。
そんな極端な例を持ち出さずとも、私達がもともとどこから来たのかという人としての存在の本質の片鱗には、幼い子供達を観察したり、私達自身の幼い頃の在り様を想い起こしてみることで触れることができます。また、私達が最終的にどこに行こうとしているのかについても、余命いくばくもない老人の在り様を観察したり、先人達の死の瞬間やその前後に立ち会うことで伺い知ることができます。
何らの理性も持ち合わせず、自らの本能と欲望に100%忠実な言動に終始する幼少期や、心身ともに朽ち果てて、まさに死を迎えんとする老人、あるいはまた精神に異常をきたし、それまでの記憶や人格を失ってしまったような人達を観察したりすることから、本来人は如何に利己的で、怠惰で、我侭で、そして残酷であるのかということがよく理解できます。
人も人である以前に一動物に過ぎないのですから、人が本能や欲望に支配された一動物としての基準から離れて人であろうとするためには、そしてまた人としての私達が住む社会を豊かで平和なものにしていくためには、私達一人一人がささやかなプライドを蓄積しつつ、まずは自らの存在に対する自尊心を培い、そして他者の存在をも尊重していくことができるようになることが不可欠です。
そうした自らと他者の相互尊重の前提により私達の社会の規範を創り上げ、すべての人達の存在とその在り様が尊重されることは、人が人として生活していくための基盤であると言えます。
公平かつ公正で、社会的弱者や自由競争の敗者を救済しようとする発想を私達一人一人がごく当然のこととして有するようになり、そしてその実際の具体的な仕組みを構築していくためには、教育や法律などといった社会を構成するすべての要素を含めて、総合的かつ根源的な発想の転換による構造的な改革が不可避であることは否定できません。
残念なことですが、現状の私達の(国際)社会は、一部の社会的強者と競争の勝者が、自分達の立場と既得権を擁護する視点によって成立しているに過ぎません。
人が二人よれば、そこに上下関係が生まれます。利用する者とされる者です。人が大勢集まっても同様に、利用するグループとされるグループに分かれるだけのことです。そして大抵の場合、利用する側はほんの少数で、利用される側は圧倒的多数であるというのが、世界のどこの国においても、またいつの時代にも共通した典型的構図であり、私達人類はこれまでの歴史において、それを営々と懲りずに繰り返し続けてきているのです。
人は誰しも平等である、こんな発言をしても、大抵の人達からは理想的建前論と一笑されてしまいます。しかし、果たして本当にそうなのでしょうか。もしそうであるなら、現存の社会の規範も仕組みも、同様に単なる理想的建前に過ぎないわけですから、利己的な生き方はもちろん、欺瞞も搾取も、犯罪や戦争も、何一つとして否定できなくなってしまいます。
それぞれ与えられた才能や能力、あるいは生活環境といったある意味先天的な要素においてはもちろんのこと、またどの程度の努力をするのかという後天的な要素次第で、人の人生は大きく変わっていきます。人は平等ではあっても、決して同じではないのです。私達のように豊かな日本に生まれるのも、またその日の食にも事欠くような貧困な国に生まれるのも、運不運以外の何物でもありませんし、また努力さえすれば様々な可能性に満ちた私達と、努力以前に最低限の教育を受ける環境にすら恵まれない人達とが、そもそも同じ土俵に立てるはずもないのです。
人が人として生きるためには、最低限の衣食住環境、それにはもちろん医療など生活に不可欠な環境も含まれます。また教育を受ける環境、そして労働環境は不可欠なのです。ところが、それら人としての最低限の環境を有する私達は、世界全体においてはごく少数グループに過ぎないのです。貧困、それは諸悪の根源要素の一つですし、人は生きていくためであればどんなことでもするものです。
一動物とさほど離れていないかのような生活を強いられている貧困諸国の人達に対して、彼らが生への本能と欲望に忠実に生きる在り様を、どうして私達は否定することができるでしょうか。
私達の社会的強者としてのまた自由競争の勝者としての論理、あるいは社会の規範が、どうして彼らに通用するでしょうか。そうした根源的な世界の貧困問題を解決していくことなくして、私達はどうして世界平和を謳うことができるでしょうか。そして何より、どうして彼ら自身が自らの貧困問題を解消していくことができるでしょうか。それが可能なのは、強者勝者としての私達からの働きかけなくしては、彼らはスタート地点に立つことすらもままならないのです。
利用される側は圧倒的多数です。すでに搾取され続けてきた彼らの逆襲は始まっていますし、私達が自らの国際人としての立場や役割を認識し、これまでの言動を改めていかない限り、私達が彼らによって滅ぼされる日は、近い将来必ずやってきます。それはこれまでの人類の歴史が証明しているところです。
そして仮に私達と立場が逆転した彼らが、現状の私達同様に、自分達さえよければという発想と言動に支配されるとしたならば、また新たに彼らに利用され搾取される側の逆襲をいずれ受けることとなり、人類は決して争いのスパイラルから脱却することができず、永遠に同じ過ちを繰り返し続けることとなってしまいます。
→第9号 ▼Series (2) 〜日常の風景〜
File #2-6 「自分を信じる人だけが救われる Vol.6/鬱の自己増殖と拡散・続編2/ささやかなプライド・続き」に続く
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この続きは、私のWebサイト”What's Cool!? by POPO”のnob's diaryにて、日々少しずつ書き足していますので、次号までお待ちになれない方がいらっしゃいましたら、こちらをご覧くださいませ。
2002年 元旦
POPO