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MINDSHOOTING ESSAYS -What's Cool Life!?-

バックナンバー 0006

●○●第6号●○●

巡り巡ってまたふりだしに
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またまた今号のエピソードが長いものになってしまいましたので、さらに次号に順延させていただきます。

 →第7号へ

 

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≪EPISODE≫

 ▼Series (2)  〜日常の風景〜       
  >file#2-3 自分を信じる人だけが救われる Vol.3

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人を心から愛しそして人に心から愛されること、これは私達の生きる目的であると言っても過言ではない、そしてそれは本当に難しいことだと私は思います。

もはや古典の部類に入りつつある昔の作家の著作に、「人のすべての行動は、媚態意識の上に成立している」といったようなくだりがありました。普段の生活であれ仕事であれ私達のすべての言動は、異性を意識し異性に認められたい愛されたいという願望をもととしているという考察です。確かに私達の言動からのすべての結果に至るそれぞれの原因を突き詰めていくと、ほとんどの場合というよりもすべての場合において、自らの意識の根源に存在する媚態意識に気付かされます。

基本的な身だしなみから積極的なファッション、ヘアーメイクやボディーデザイン、日常の挨拶や様々なマナーなどに、異性を意識しない人がどうして配慮をするでしょうか。決して誰も訪れることのない住居に、誰が時間と手間とお金をかけるでしょうか。何のために人は、勉学に励んで受験戦争に勝ち残り、社会に出て知識と経験を集積し努力を重ねて、金銭はもちろんのこと確固たる社会的な立場や名声までも得ようとするのでしょうか。直接的であれ間接的であれ、私達のすべての感情や言動の根源の媚態意識の存在を認めることは、私達は人に、また突き詰めればそれも異性により愛されるために生きているという事実を認識することになります。

 

さらに、人に愛されることを突き詰めていくと、人を心から愛するためには、まず自分自身を心から愛せるようになることが絶対必要条件であることが解り、まずは自分自身を心から愛することができ、そして人を心から愛せるようになると、自分が人から愛されることは絶対必要条件ではないことに気付かされます。

愛する人といつも一緒にいたいというような独占心や、愛する人が自分以外の人に愛を向けることを許容できないというような嫉妬心など、私達が日常的にごく自然に愛する人に対して抱きがちな感情も、それぞれの「心」を「欲」に置き換えて使われることからも解るように、実は愛とは正反する私達の欲望や疑惑といった本能的なエゴイズムを根本の原因とした感情の現れであり、そのことに気付けば心から愛する人への私達の態度や姿勢は、愛する人が愛しているその人自身をあるがままに許容する方向に向かっていきます。但しそれは、愛する人がその人自身を心から愛することができている場合に限ってのことで、その愛する人が自らを愛せるようになるまでの過程においては、私達は自らが愛する人に対して無償の援助をしていくことになります。

とすれば、私達が自分自身を心から愛することと愛する人がその人自身を心から愛することが、真実の愛への入り口であり、さらにまた人を心から愛することが私達が生きる目的であって、愛する人に愛されることを目的としている限りは、その人を心から愛せるようにはならないということにも気が付きます。

何だかこうして書いていると、自分でも言葉のパラドックスに陥ってしまいそうな気分になります。私の頭の中ではとてもシンプルかつナチュラルなことなのですが、言葉にするとどうしてこんなに複雑かつ陳腐な表現になってしまうのでしょうか。私の文章力の問題かとは思いますが・・・。

 

容姿や才能あるいは家庭環境に恵まれた人は、また社会的な成功を収めた人は、そうでない人との比較の基準において、人から愛されやすいのでしょうか。決してそうではありません。人と人の間の真実の愛のもとでは、すべての人が平等なのです。その人の持てるものは、その人がその人自身を心から愛し、また人を心から愛し、そして人から心から愛されるための何のメリットにもなりえません。

私達一人一人には、それぞれ一つ一つの運命というものがあります。お金にいつも困る人も決して困らない人もいます。何でもうまくいく人も何をやってもうまくいかない人もいます。容姿や才能や健康に恵まれる人も恵まれない人もいます。そうした運命も私達一人一人のかけがえのない自身の一部としてあるがままに許容するということも、自分自身を愛せるようになるためには不可欠なことです。

 

自分自身を心から愛せるようになるための第一歩は、自らの存在と自らにふりかかるすべてが自分自身の責任であるということを強く自覚することです。そして、自らの言動の規範となる判断のすべてを自らの尺度と責任のもとに下すことです。そうすることで、たとえ自らの判断が過っていたとしても、反省はすれども後悔を残すことはなくなりますし、そうした過ちも自らの成長につなげていける糧としていくことができます。自ら思考し判断することのない人は、そこに自分自身が存在していないのですから、いつになっても決して自分自身を愛することはおろか、自分自身を見い出すことすらできませんし、もちろん心から愛せる人に出会えることもありません。

人を愛することにもともと理由など存在しませんから、自分自身を愛せるようになった人は、ある日唐突に愛する人に出会うことになります。愛した人がたまたまその人自身を愛せる人であったなら、それはとても幸運なことです。少なくとも自分自身を愛することのできる人は、他人をも尊重することのできる人ですから、その人を愛する他人の自らに注がれる愛情は尊重してもらえるでしょう。但し、その人に自分も愛されるかどうかということはまた別の次元のことですから、現実社会において人と人が心からお互いを愛し合うことのできる真実の愛で結ばれる確率は、実際には非常に低いということを認めざるをえません。

人を愛するということは、とても厳しくそして大きなリスクを負うものです。自らにリスクがないのは、相手との利害に基づく関係であって、決して愛情関係ではありません。また自らに降りかかるリスクの大きさに躊躇してしまうのは、その相手を本当に愛しているわけではないからです。究極の選択として、自分自身よりも愛する相手をまず尊重することができること、その相手のために自らの生命をもリスクできること、それが真実の愛であると言えます。

 

第3号においても触れましたが、私はすべての存在を好きなものと嫌いなものだけに明確に分けて、嫌いなものは極力つくらないことから努力をしています。物事を嫌うということは物事を否定することにつながっていき、否定からは何も生まれないと考えるからです。好きではないものは、好きなものの何倍も存在していますから、正確に言えば将来は好きになるかもしれないけれど少なくとも今は好きではないものとして、否定はしないであるがままに肯定的に認識し、私の側から主体的かつ積極的には関わりを持とうとせず、そのままそこに放置しておくということを、最低限守るべき自らの姿勢としています。こうした肯定的視点からは、様々な好きではないものの中の好きな部分が見えてきたりもしますし、また好きではないものからこそ多くを学びとることもできます。そして少なくとも私の側の要因からの争いが生じることもありません。

そんな暮らし方を長く続けてきて、自分自身と身辺が整理されてくると、見回しても嫌いなものは周囲にほとんど見当たらなくなります。ずっと以前に自分自身の存在の有り様があるがままに許容できず、周囲の様々な存在に対しても共感できないにもかかわらず、それらに同調していかねばならないような錯覚に陥ってストレスに満ちた日々を過ごしていた頃のことを想えば、まさに今は実にシンプルかつナチュラルな自らが納得できる日々を過ごせています。もちろんのこと、当時からすれば、仕事の環境や交友関係も大きく様変わりをしましたし、新たに得たものも大きい反面、また多くを失ないもしました。反省すべき事柄もたくさんありましたが、まったく後悔は残してはいません。

 

もう思い出せないような人達も大勢いるほど多くの人達と出会い、そのうちの好きだと思える人達との様々な経験を重ねて、ほんの一握りの人達とのかけがえのない信頼と愛情の関係が残りましたが、出会ったほとんどの人達は既に去りました。今なお深いきずなで結ばれている一握りの人達は、全員もちろん私の好きな人達ですが、その中でも私が心から愛した人は、家族は例外として三人だけですし、その三人のうちの一人は、二年程前に他界してしまいました。

前述のような価値観で日々を過ごすようになると、損得の基準から判断すれば、大抵の場合私の側に損が残り、得は相手の側に回ります。それでも私はその人を好きになって、自ら納得をしてそれ相応のリスクをしたのですから、私の側に様々な損が残ったことも納得ができてしまっていますし、相手の側に得が回ることが喜ばしくも思えてしまいます。

なかには策略や悪意を持って私に近付いてきた人達もいましたし、当初のうちは健全で楽しかった関係が、何らか不測のアクシデントやトラブルが生じたりしたことで自らのみの保身に走って私を裏切るような人もいました。大抵の場合多くの人達は、自らの損得勘定のそろばんが合っているうちは近付き、合わなくなれば離れ、なかには付かず離れずうろうろしているような人達も少なくありません。

そんな様々の人達との関わりの中から、ずっと以前は来る者は拒まず、去る者は追わずというスタイルで様々な痛い目にも遭いましたし、私を裏切り傷つける人達に対して憤りや憎しみの感情を抱いたような時期もありましたが、もうここ数年の間は、はっきりと嫌いだと思える人達には決して私からは近付きませんし、近寄ってこられても無視したりかわしたりしてしまいます。そして実際のところは嫌いな人達とそれほどの違いはないのですが、好きではない人達とは一定の距離をおきながら消極的な姿勢ながらもあるがままに尊重し、好きな人達とは積極的に付き合って、それぞれの人に対しても好きな度合いに応じてのリスクもしますし、たとえ裏切られたとしても、憐憫の情を感じることはあっても、憤りや憎しみの気持ちを感じることはまったくと言ってよいほどなくなりました。もともと後悔するようなことなど最初からしなければよいだけのことですし、最悪のケースとして人は裏切るものという覚悟さえしていれば何も恐れることはありません。虎穴に入らずんば虎児を得ず、リスクしないで真実の愛など決して手に入ることなどないのですから。

 

私のこれまで付き合った最悪の二人は、一人は中学時代からの、もう一人は大学時代からの友人で、中学時代からの友人は、私を裏切り去る時に、「友達のふりをしてきてごめん」と言いました。本人は謝罪のつもりだったのかもしれませんが、私にはそうは受け取れませんでした。その人は、私のことをもはや友人とも思っていないのかもしれませんし、その言葉も本心なのかもしれませんが、私はそう思い込まないとその人が自らを保てないのだろうと今も思っていますし、その人を好きな気持ちには何ら変わりもありません。その人は、私に数千万円の借財を押し付け、弁護士を通してしか私と話もせず、責任のなさを主張して逃げ回っています。もう一人の大学時代からの友人はもっとひどくて、逃亡と謝罪を4度も繰り返しながら、現在5度目の逃亡中です。この人は私に億単位の借財を押し付けています。それでも彼等を嫌いになれない私自身を様々に感じはしても、そんな私自身が私はとても好きだと思えてしまうのです。

そして反面そんなこれまでの生活を続けてきたなかから、私は三人の心から愛する人に巡り会い、その人達との愛を日々育んでいます。たまたまのことで、そしてとても幸運なことに、私はその人達に愛されてもいると信じています。でもその愛する人のうちの一人は、既に他界してしまいました。何の徴候すらもなかった突然の脳硬塞で、おそらく亡くなった本人も自らの死を自覚する間もなかったのではないかと思います。その人を失って以来、私自身の心のどこを探してみても悲しみのひとかけらすら存在していないことは私にとっての人生最大の驚きでしたし、その人の存在を生前よりも私は今も常にとても身近に感じていて、その人を愛する気持ちも日々強くなってきているのです。

愛する人が生きていようといまいと、もちろんこれは極端なことですが・・・、愛する人が男であれ女であれ、生活や仕事の時間を共有できようとできまいと、愛されようと愛されまいと、またどんなにそのことで自らが苦しみ傷つけられようとも、本当に大事なのは自らがその人を愛しているのかどうかということに尽きると私は確信していますし、それを信じて生きていくことで私は、日々少なくとも心の奥底においては至福の充足感を感じながら暮らしています。

こんな私のエッセイを読んでくださって、読者の皆さんのたった一人の人でも何かのヒントを感じ取ってくだされば心から幸せに思います。

Believe yourself, and feel each own happiness which is already inside of your heart!

 

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CoolShot #6 / 2001.03.23
Title / Madoromi

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