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MINDSHOOTING ESSAYS -What's Cool Life!?-

バックナンバー 0009

●○●第9号●○●

 

巡り巡ってまたふりだしに・続編
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→第10号に順延させていただきます。

 

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≪EPISODE≫

 ▼Series (2)  〜日常の風景〜       
  >file#2-6 自分を信じる人だけが救われる Vol.6/鬱の自己増殖と拡散・続編2/ささやかなプライド・続き

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→第8号からの続き

私は例えば世界の経済水準を均一化すべきであるとか、貧富の格差を解消すべきであるとか、そうした非現実的な主張をしたいわけではありません。重要なのは、役割分担意識です。たとえ、利用する側に立とうと、利用される側に立とうと、お互いがその自らの立場と役割を正確に認識し、納得をしたうえでのことであるならば、事態はまったく異なるものになります。

カネやモノに対して執着心の強い人もいればそうでない人も、仕事に没頭したい人もいれば働くことが好きでない人もいるわけですから、この社会において私達一人一人が、自らの価値観や立場などそれぞれの事情に合わせて、その時々の自らの在り様を選択できたとしたならばどうでしょう。

もちろんそれ以前に、前述のような人としての最低限必要な条件は、世界の人々全員が享受できているという前提においてのことであることは言うまでもありません。

 

世界の共通の常識あるいは良識といっても過言ではない、私達のほとんど誰もその真偽を疑わないことの一つが、家族あるいは民族意識です。

家族を護る、民族を護る、そして国家を護るといった大儀名文のもとに、様々な局面における私達の他者に対しての排他意識が、多くの国際社会問題を生み出し、そしてそれらを増長していく温床となっていることに気が付いている人達が、どれほど世界に存在しているでしょうか。

家族といえども、もともとはアカの他人であった男女が結びつくことによって始まり、子供が生まれ、その子供がまた他人と結びつくことによって、家系が受け継がれて数も増加していきます。

アメリカ合衆国がその名のとおり好例ですが、例え国家といえども、もともとは異なった民族が結びつくことによって成立してしまうのです。

重要なのは、国家でも社会でも組織でも家族でもありません。世界中の私達一人一人の個人というかけがえのない存在が最も重要なのであって、国家をはじめとする私達を取り巻く体制の本来の在り様とは、私達一人一人の個人の幸せのために構成され、そしてその在り様も変遷していくべきものなのです。ところが、体制の変化なき存続のために、私達一人一人の存在が犠牲になるという本末転倒の状況が、残念なことに現状における国際社会の実情なのです。

先にまず体制ありき、そしてその制約された体制下の環境において、私達は利用される側でなく、利用する側のグループに、そしてその中でも少しでも上位の立場に身を置くために、幼い頃から競争社会に生きることを余儀なくされ、そして慣らされてしまい、いつの間にかその本末転倒の状況にも疑問すら感じなくなってしまっているのです。

そしてその競争に勝ち残り、既得権に満ちたごく少数の社会的勝者のポストを手中にした者達は、それにしがみついて決して放そうとはしませんし、そのポストを脅かす台頭してくる新興勢力に対しては、結束して排他的な圧力を加えようとします。

 

先進諸国の私達がカネとモノに支配された経済至上主義的な二十世紀は過ぎ去り、私達は個人尊重と国際的協調の二十一世紀を迎えています。

二十一世紀は、もはや一人勝ちは世界の均衡が許さない、持たざることがクールな時代です。これまでのように、富裕な人達が尊重される時代は終焉を迎え、やがて彼らは国際社会から疎外され、否定される恥ずべき存在へと次第に変遷していくことでしょう。

もちろんそれは、まだまだ現状においては私達の社会の規範の中のどこにも見られない新しい価値観であり、それが一般化常識化していくまでにはまだまだ長い時間がかかるでしょうし、その間に今後も多くの過ちを私達は繰り返し犯していくのだと思います。

 

自然は必然に限りなく等しいのですし、不自然な存在は次第に淘汰され、やがて消滅していかざるをえないのが存在の摂理なのですが、これまでの世界の長い人類の歴史が証明しているように、これだけ長い時間を過ごそうとも、私達はまだ自然な人類としての在り様を見出すことができないでいます。

私達は咽元を過ぎればすぐに過ちを忘れてしまいますし、自分さえ良ければ隣の他人が不正や不運で困っていても見ぬふりをしてしまいます。そして何より自らの絶対的価値基準を培い、他者への依存従属心を棄て去り、自らの本来の在り様を認識することすらもままならないような実情においては、自らにも他者にも、そして社会にも尊厳を確立していくことなどできようはずもありません。どこに行くべきか解らない者は、決してどこにも行けないで、そこに留まっているか、もしくはうろうろ彷徨い歩くしかないのですから。

 

つまらない常識に因われず、他人の目を気にしなければ、人は誰でも簡単に様々な束縛から解放され自由になれます。自由とは、限りなく自分自身に束縛されることです。自らによる束縛の度合いが大きければ大きいほど、自由の度合いも大きくなります。

この常識が、実はとても厄介な曲者なのです。常識はその位置付けや距離のとリ方を誤まると、私達をネガティブなスパイラルに陥れます。基本的には様々な異なる人格と価値観を持ったすべての人達にとっての共通項であるはずの常識も、自らの価値観に沿った人格形成以前に囚われ過ぎてしまえば、私達の自分探しの旅をはるか横道に逸らしてしまいますし、また、私達が時勢の変化に追い付いていけずに陳腐化したり現状にそぐわなくなったような事柄を見分けられなければ、かえって害にもなりかねません。

まずは何より自らが納得でき愛することのできる、そして第三者に尊重されるべき人格の形成が最優先の課題ですし、それができて始めて自らの絶対的価値基準に基づき、他者への依存従属心を棄て去り、自らの本来の在り様を正しく認識することができるスタート地点に立つことができます。

しかし、それができたとしてもまだ最低限の自らの在り様への納得と尊重という、そして第三者の在り様に対しても否定はしないというだけの自己完結的な基準に過ぎません。自らへの満足度を高めていくためにも、そしてさらにまたその満足の度合いを飛躍的に高めていくためにも、第三者とのそして社会との関わりにおいて自らの在り様と第三者の在り様の間で、自己の主張という権利と第三者の許容という義務のバランスを調整していくこと、それが公平かつ公正な社会生活を営む根源的な発想であるといえます。

その権利と義務のバランスにおいて、自己主張という権利ばかりを先行してしまえば第三者に自らの在り様を許容されませんし、また第三者の許容ばかりが先行して自らの相応な主張が伴わなければストレスや実際の抑圧となってしまいます。お互いの理解と納得のないところに公平かつ公平な、そして秩序ある社会は決して成立しえないのですから・・・。

 

私達の日常生活における習慣や常識の不確かさや危うさについて、そしてまた変遷し続けるそれらに順応していきつつも、本来あるべき方向性に軌道修正をしていくためには、私達個人一人一人の絶対的価値基準の総合によって認識と判断をしていくことの重要性について、さらにその絶対的価値基準の確立と維持には自らの尊厳イコールささやかなプライドの蓄積が本質的かつ根源的な必要条件であることについて、こうして3号にわたって論述してきました。

ささやかな自らのプライドを蓄積していく過程において陥り易い過ちは、本質にそぐわない過剰な自意識に囚われてしまうこと、もちろん逆に正当に自らを評価できず不必要にネガティブな認識に囚われてしまう場合もあります。こうした陥リ易い過ちを回避するためには、私たち一人一人はその在り様にかかわらず、存在しているただそれだけでかけがえのない唯一無二のものであることを知り、第三者による評価や社会的な地位や実績などという客体的価値基準に左右されない、自らが好きか嫌いか、あるいは自らの尺度により納得ができるかどうかなどといった絶対的価値基準によって自らの責任によって判断し、言動を律して自らの在り様を創りあげていくことが重要です。

 

そして二十一世紀は、成長から成熟の段階へ、そして組織偏重から個人尊重へ、そして競争から協調の時代への転換期を迎えており、そして私達の社会は現在これまでの延長上の方法論から脱却して、発想の転換に基づく新たな仕組みづくりを要求しています。

もはや体制や第三者に依存従属して与えられることを待っているような時代ではありません。主体的に考え言動をしていくささやかなフライドの蓄積により確立していく自らの尊厳をベースに、第三者の尊厳をも許容し、公正かつ公平な新しい社会の創造に積極的に参画していくことこそ、この時代に生きる私達一人一人に与えられた権利であると同時に課せられた義務でもあるのです。

 

常識に束縛されることなく、すべての存在をあるがままに受け入れ、第三者の評価に左右されずに自らの絶対的価値基準にて判断し言動していくこと、そんな自らに限りなく束縛される本当の自由を謳歌していく喜びの大きさを一人でも多くの人に知ってもらえたらと心から思います。

所詮は人生、されど人生、思い悩むほどたいしたことなどありはしません。だからこそまた価値があるのですし、その価値は自分次第でどんどん高めていくこともできます。

いずれにせよ、自らの存在を超えて価値のある存在など、この宇宙のどこにも存在するはずもないのですし、宇宙は私達一人一人を中心にしてその廻りを廻り廻っているのです。

 

CoolShot #9/ 2002.07.31
Title / DRAGONFLY

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