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MINDSHOOTING ESSAYS -What's Cool Life!?-

バックナンバー 0010

●○●第10号●○●


巡り巡ってまたふりだしに・続編/巡り巡る


先頃ある日、心に響くニつの出来事がありました。

ーつ目は、唐突に恋の告白を受けたことです。ある取引先のプ口ジェクトリーダーをしている女性からだったのですが、この数年継続的に推進してきた案件がー段落したため役員達にひととおりの挨拶を済ませ、ロビー階に下りるエレべーターに乗ったところ、閉まりかけたドアーが開いて彼女が飛び込んできたのです。

「あのっ・・・、お伝えしたいことがあるんですけど・・・、私・・・、私・・・貴男のことが好きなんです・・・・・。そのことだけどうしてもお伝えしたくて・・・、ああすっきりしたあ。これで私も配置換えになりますので・・・。ごめんなさい、突然・・・、気になさらないでくださいね。気持ちをただお伝えしたかっただけなんです。それではお元気で、さようなら」

エレベーターがロビー階に降りるまでの間に、彼女は一方的にそれだけ話して、私をロビー階に送り出した後、そのまま同じエレベーターで元の階に戻っていってしまいました。私が何のリアクションもできないでいるうちの、ほんの数十秒の間の出来事でした。

その彼女とは、もうかれこれここ3年来の付き合いで、案件のリーダーであったこともあって、直接会うのは2〜3ヶ月に1度あるか程度だったのですが、日常的に電話やらメールでは仕事上のやりとりをしてきていました。

もともと銀行でキャリアを積み、その銀行をメインバンクにしていたその会社の社長が気に入って1年がかりでヘッドハントしたというだけあって、彼女は、男女問わず部下にはもちろんのこと、外部の取引先からの信頼も厚く、その会社では社長室付きのアカウントエクゼクティブとして、案件の予算も含めた全体の進行管理を任されているような、とても有能で知的な女性です。

外見はスリムな長身で、特別な美人というわけでもないのですが、ショートカットでボーイッシュなイメージ、とても気の付く繊細な性格、いつも上質なものをさりげなくこざっぱりと着こなすセンスの良い彼女に、私ももちろん好意を抱いてはいましたが、ごく一般的な素敵な人だなという程度のものでしたし、ましてや彼女の特別な気持ちにはこれまでまったく気付きませんでした。

 

彼女も気にしないでくれと言っていましたし、私も今後彼女との関係をどうこうしようなどというつもりもないのですが、相手の考えや感情の動きなどには敏感なものとの自負もありましたし、まったく予想をしていなかった展開に驚きと戸惑いを感じつつ、次の打ち合わせに向うための地下鉄に乗ったのです。

とりとめもなく思いを巡らせていたこともあってのことでしょうか、私は向かい側の席に座った女性が目に映ってはいたのですが、その女性がまだ私が二十歳代前半の頃に想い焦がれた女性であることに気付くのに、一駅分くらいの時間を要してしまったのです。何故なら私を驚愕させるに充分なほどに、彼女が老け込んでしまっていたからなのです。

彼女は膝の上に置いた厚い単行本に目を落としていたのですが、本当にその女性に間違いがないのだろうかと疑ってしまうほどに、ノーメイクの肌はやつれ、髪も無造作にひっつめただけ、服装にもほとんど無頓着というイメージで、当時私を含めて周囲の男達の視線を釘付けにしていたあの美貌は、もはや見る影もなかったのです。

まるで浦島太郎にでもなったかのような気分でした。

彼女が私の想い出の女性であることに気付いてからは、私はまっすぐに視線を合わせられないでいましたから、彼女が私に気付いていたのかどうかは判りません。しかし、何かすべてを拒絶するかのような雰囲気がありましたし、私はどうしたものかと思案しましたが、次の駅で降りなければならなかったこともあって、結局そのまま声をかけずじまいで地下鉄を降りてしまいました。

私はホームに降りて振り返ることも躊躇しながら出口に向って歩いていったのですが、動き出した地下鉄に思わず目をやると、彼女の膝の上の本に目を落としたままの姿がちょうど一瞬目にとまりました。

私は打ちのめされてしまったような沈んだ気分に支配されていました。彼女の変貌の大きさにだったのか、気付いていたのにもかかわらず声すらかけられなかった自らに対してなのか、思考はまったくまとまりませんし、その後の打ち合わせにもろくに集中できず早々に切り上げ、ただあてもなくぼんやりと街を彷徨い歩くうちに、いつしかあたりはもう夕闇に包まれてしまっていました。

 

その二つの印象的な出来事以来、私は懐古的な気分に囚われてしまっていて、このところ時間に余裕があると、昔懐かしい場所を訪ねて回っています。通った学校周辺やらこれまでに移り住んだそれぞれの街などといったところです。

もう随分長い間、私は住む場所を持たない放浪の生活を続けてきています。どの場所にもどこの人達にも属さない異邦人としての生活です。

もちろん関わりを持たないというわけではありません。その時々の日常生活を営むうえでも、ましてや仕事をして生活の糧を得るためにも、相応の社会生活は不可欠です。ただ世間一般の常識を逸脱したような私の本質的な在り様に関する事柄は、相手から興味を持って尋ねられない限りは、また伝えたとしても理解をされないと判断されるような相手には、私の方から主体的に何かを伝えるということはしないようにしています。

第三者に理解してもらうことも面倒ですし、もちろん私の実情を知る何人かの親しい友人もいないわけでもないのですが、というような訳で、長く離れて暮らす家族をも含めて私を知るほとんどの人達は私の在り様を知りません。

昔懐しい場所を久しぶりに訪ねると、その頃とほとんど変わっていない所もあるかと思えば、目的の場所が見つからないほど周辺が変わってしまっていたり、時には訪ね先自体が無くなってしまっている場合もあります。

その頃によく買い物をした店や通った飲食店を覗いてみても、当時とほとんど変わらない店の人が懐かしがってくれたかと思えば、店の人がすぐに気付かないほど風貌が変わってしまっていたり、もう代替わりをして隠居してしまっていたり、もう店自体が無くなってしまっていたりもして、長い時の流れを感じます。

十数年ぶりに会う懐かしい人達とその当時の想い出話をしたり、当時からは大きく変わってしまった近況を聞いたり、当時のやんちゃ坊主や鼻垂れ娘がもう立派な大人に成長した姿を見たりすると、柄にもなく感傷的な気分に浸ってしまったりと、年齢を重ねていくことも悪くはないものだなどと思ったりもします。

 

私は、外見的にも若い頃からさほど変わりませんし、頭の中も二十歳頃からほとんど成長していませんから、もう二十年程も同じような服装で同じようなものを食べ、同じ価値感で変わらぬライフスタイルを淡々と継続してきています。

コンセプトデザイナーという仕事柄その時々のトレンドや新しいムーブメントなどについてのチェックは普段から怠りませんが、それらの周囲の変化に自らの問題としては順応していく必要性も必然性もほとんど感じることはありませんし、多くの存在がその在り様を当然のようにたやすく変化させていくことに強い違和感を覚えてしまいます。

ある時ある場所で共通のあるものを共有したある何かが、時を経て別の何かに変わってしまうことや、変わらぬことに対して周囲からの抑圧を受けることがあまりにも多いので、私は変わらぬ私自身であり続けるためのごく自然の成り行きで、ある一所に留まらず、何物にも属さない流浪の日々を送るようになりました。

これまでの人生において、いったいどれだけ多くの人達が私の上を通り過ぎていったことでしょう。もう私自身にも想像ができないほどですし、そのほとんどの人達の名前も顔も忘れてしまいました。

ごく最近までの長い間、私は基本的に来る者は拒まず、去る者は追わずという姿勢でいましたし、特に仕事面で順風満帆な時期などには、まるで虫が湧くかのように、どこからともなく記憶の彼方にいたような人達や、見ず知らずの異様に愛想の良い人達などが次々と現れてきたりもします。そして、そうしたほとんどの人達は、様々な利害関係の果てに、またいつの間にかどこへともなく消え去っていくのです。

もちろんある時ある場所で共通のあるものを共有したような深く関わった人達の多くは、今もまだ私の記憶に残っており、すべてを忘れ去ってしまった訳ではありませんし、わずかな数ながらも深い愛と信頼でつながったかけがえのない友人達もいます。しかし、仮に千人との出会いがあれば、そのうち現在に続く関係を残せた人は、一人ないし二人いるかどうかといったくらいの確率かと思われます。

 

なつかしい昔なじみに、街でばったりと出会ったり、仕事上でたまたま同席したり、あるいは共通の知り合いを介して巡り巡って再会を果たすなどということが時々あります。

声をかけられない限りは私がまったく気付かないほど相手が変貌をとげてしまっているような場合もあれば、まるでほんの数日会っていなかったくらいに錯覚させるほど時の流れを感じさせず変わらない相手もいます。

それは決して外見の変化だけによるものではありません。もちろん中身の変わらない人は外見も変わらないケースが多い傾向があるとは思いますが、必ずしも誰にでもあてはまるものではありません。以前の感覚で接すると、この人は一体誰なのだろうと感じてしまうほど、人間性がすっかり変貌してしまっているような極端な場合もあります。

私自身に関しては変化の必然性を感じませんし、また変わらない人が好きだというだけのことであって、決して変化を否定するものではありません。また大抵の場合、変わってしまった昔なじみは、それなりの社会的ポジションを獲得していたり、相応の財産を築いたりしている傾向が高いのも一つの事実なのです。

何かを得ようとすれば、その反面で何かを失う・・・、もちろん双方を得る少数の例外はあるにせよ、大抵の場合それはいたしかたない世の常なのかもしれません。

体制や組織に依存従属することや、主義主張や日々の方法論において自らの個性を廃して凡庸性に徹すること、あるいは他人が嫌がるような見てくれもよくない社会的役割に徹すること、また他人の都合や評価に左右されず自分主義に徹していくことなくして、多くの場合競争の勝者として社会の強者になることはなかなか難しいものです。

他人によく思われたい、格好良く見られたい、他人に左右されずに自己を実現したいなどと指向しているうちは、なかなか社会の表舞台には出ていけないものですし、それ相応の実質的な成果につなげるためには、自由と引き換えに体制や組織に隷属している人達の何倍もの努力が必要になります。

 

すべての人達は、自覚の有無にかかわらず結局のところは、それぞれ一人一人の価値観に沿って日々自らの在り様を創り上げているのです。したがって、何を良しとして何を欲っしているのかは千差万別、何が良くて何が悪いのかもその人本人以外には解らないことですし、その人がそれを良しとするのであれば、第三者がとかくあれこれ言及すべきことでもありません。

各自が共通の価値感を持ち合わせている者同志、あるいはそれぞれの好き嫌いの基準に照らして相手を選択すれば良いことで、自らの尺度にあてはまらない第三者を決して否定すべきではありません。人は誰も関わりのない第三者から自らの在り様を頭ごなしに否定されたくはないでしょうし、それはお互い様のことです。

人類みな兄弟とか、天は人の上に人をつくらず・・・などとあまたの幻想的文言が世間に溢れていますが、人に感情というものがあり、好きな人がいる限りは反面嫌いな人も必ずいるわけで、すべての人が仲良く共存するなどということは決してありえないのです。

とすれば、好きな人同士が集まって、嫌いな人同士はお互いに近づかないという、嫌いな人同志がお互いを自らとは相入れない別の価値として消極的な意味で尊重し合い侵害し合わないということで、争いを回避していく以外に方法はありません。

簡単なことのように思えるのですが、現実社会においてはたったこれだけのことが非常に難しいことなのです。自らの絶対的普偏的価値基準を持たず、自らの在り様を尊重し愛しむことができない人達、つまり相入れない相手に尊重されるベき自らの尊厳を持ちえない人遠があまりにも多いからです。

自らの尊厳を持たない人は、他人を尊ぶ術など到底持ちえませんし、他人との比較の基準においてでなければ自らの在り様を認識することもできなかったり、自らの尺度を持たず、常に他人の価値基準や判断に終始してしまう例も珍らしくはありません。ともすれば他人を否定することでしか自己を表現し主張する術を知らないような人達とて決して少なくはないのです。

学歴や社会的地位などに固執したり、盲目的にブランド品を追い求めたり、必要以上に世間体を気にしたり、公私の境なく付き合う相手や消費の対象の選択基準を実績や第三者の評価に頼ったりと、普段の私達がごく何気なく日常的にしてしまって憚らない事柄の多くが、実は他人との争いにつながっていく小さくはない要因を形成しているのです。

カネやモノはもちろん他人も、社会生活において事実上不可欠な要素ではあっても、決して人の存在の目的にはなりえないニ次的な要素です。換言すれば、それらが私達を真の幸福に導いてくれるわけでは決してないということなのです。私達を救い満たすことができるのは、唯ー私達自身に他ならず、自身以外のすべての存在は、よくても私達が自身を真の幸福に導くための一助にしかなりえはしないのです。

親とて子とて、家族とて人生の伴侶とて、いかなる組織や社会とて、自らを救い満たせない人の前ではまったく無力な存在でしかありません。

自らを救い満たすことができる唯一のもの、それは自らの絶対的価値基準なのです。他の何物にも左右されず、あるがままの自分自身を許容し愛しむことです。

すべての人は、自らの尊厳に基づくあるがままの自らの存在をあるがままに許容される権利を有しています。反面同様に、他人の尊厳といかなる在り様をも許容すべき義務も有しているのは当然のことです。そしてもしもすべての人がこの社会生活における根源的ルールを遵守することができたとしたならば、この世界からすべての争いごとは消失してしまうことでしょう。

 

しかし、その権利を主張していくことは決して容易なことではありませんし、その権利を主張できない人が他人の同じ権利を許容する義務を果たせるはずもありません。故に世界は争いごとで満ち満ちてしまうことになります。

あるがままの自分自身を許容し愛しむためには、自らの在り様や言動に対して納得ができ、そして誇りが持てるようになることが不可欠です。内なる心の声に背を向けていくら自らを偽ろうとも、決して良心の呵責からは逃れることはできません。一時的にならばともかくも、精神的に異常をきたしたりでもしない限りは、長い時の流れの中ではその自らへの呪縛に耐えられるものではありません。そもそも、自らを偽ってしまうほど意思薄弱な人達にとってはなおさらのことです。

また、第三者による客体的価値基準に左右されることなく、自らの絶対的価値基準による自らへの評価が第一義とはいえども、過剰なまでの自意識やネガティブな発想、あるいは抑制のきかない様々な欲望などに影響され、自らへの正当な評価を下すことができなくなるケースには注意を払わねばなりません。自尊心と自意識過剰は、あるいは自らに正直になることと甘やかすこととは、似て対極的に非なるものなのです。

いずれにせよ、自らすら愛せる愛せないで右往左往する人達ばかりが蔓延する昨今の時世においては、私達がお互いを尊重し合い協調し合って平穏で快適な社会生活を営んでいくことすらもなかなかに困難なことです。ましてや心から愛し愛され、深い信頼で結ばれた真の友人や人生の伴侶に出会い、かけがえのない関係を生涯にわたって育んでいくことは至難の技であるといえます。

お互いに相入れない存在として近づかない侵害し合わないという人と人との最低限の関係が維持できていればよいのですが、第三者との比較の基準においてしか、あるいは第三者を否定することでしか自らを定義することができないような人達も世間には多いのですから、そうした種類の人達から自らを護る防衛的な対策をとっておくことも重要になります。

 

→第11号 巡り巡ってまたふりだしに・続編2/巡り巡る・その2 に続く

 


≪EPISODE≫


上記コラムが長編に及びましたので、エピソードは次号に順延させていただきます。

 

CoolShot #10/ 2002.09.23
Title / NIGHTWALK

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