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MINDSHOOTING ESSAYS -What's Cool Life!?-

バックナンバー 0011

●○●第11号●○●


巡り巡ってまたふりだしに・続編2/巡り巡る・その2


現実的には、人生とは人と人との出会いであるといっても過言ではありません。もちろんそれがすべてというわけではありませんが、人の一生は第三者からの影響によってほぼ決定づけられてしまいます。

この世に生を受ける際に、人は親をはじめ家族を選ぶことはできません。幼少期の環境は、その人のその後の人生に大きく作用します。孤児であったり、両親の離婚や死別、子供同士のいじめ、家族の経済状況など、許容力や順応力に乏しい幼少期には、人格や性格の形成上大きな影響を与えることになります。

もちろん幼少期に限ったことではありません。例えば、受験戦争を勝ち抜き一流大学から官庁や大手企業に就職してエリートコースを歩んでいたとしても、たった一人の相容れない直属の上司の存在だけで、その人の将来は大きく制限されてしまいます。たった一人の異性を愛してしまうだけでも、またその後の人生は大きく変わっていきます。若くして例えば中高生のうちに子供を持つ身となるやもしれませんし、国際結婚によりまったく文化や習慣の異なる外国でその後の人生を過ごすこととなるやもしれません。

天涯孤独の人が、ある日愛する人に出会い、結ばれてたくさんの子供をつくり、その子供達がまたたくさんの子供をつくり、やがて大家族もできてしまいます。また、ひっそりと身を寄せ合って暮らす夫婦が、愛し合い尊重し合えるか、あるいは憎しみ合うのか、ともに年老いるまで連れ添えるのか、それとも別れてしまうのか・・・。

あるいは、才能と能力に満ち溢れた人材も、見出しチャンスを与えてくれる人物の有無次第です。そもそも大抵の場合本質的な意味で才能や能力などが問われるのは、それぞれの世界でー流と評価されるような相応の位置と環境に身を置けるようになった後のことであって、それまでの過程においては、本人の努力の度合いよりも理解者や協力者といった周囲の第三者の影響によるところが大きいものです。

ほぼ生涯にわたるような長期のローンを組んで、やっとの思いでマイホ−ムを手に入れたとしても、欠陥マンションあるいは住宅であったとしたら、あるいは災害や人災ましてや近隣の火災に巻き込まれるなど他人の過失によるもので保険にも加入していなかったとしたら・・・、こんな例は何ら珍しい話ではありません。

道を歩いていて、縁もゆかりもない赤の他人に突然背後から刺されて命を落とす、高速運転中に突然対向車線から居眠り運転の大型トラックが分離帯を乗り越て正面から衝突してくる、信号待ちをしていると、そこに飲酒運転のダンプが飛び込んでくる、あるいは歩道を歩いていると、頭上から物が落ちてくる、塔乗している旅客機が墜落する、乗車中のバスや電車の事故に遭遇する、ハイキング中に態やへビに襲われる・・・・・。

等々、深刻に考え出せばキリがない程に、私達の社会生活は生命の危機にすらさらされるような様々なリスクに満ち満ちています。私達の多くが日々平穏に暮せていることの方が不思議に感じてしまうほどですし、そうした多くのリスクを回避しようとしたならば、外出すらもできなくなってしまいます。

このように私達は、様々な人と人との関わり、あるいはそうした様々な関わりの膨大な集積と畜積から形成されてきた社会の中で、あらゆる可能性と相反する様々な制約に囲まれて生活しているのです。

今日はこうであるからといっても、明日がどうであるかは誰にも判りませんし、まただからこそ人生は興味深く、そして楽しいのです。それまでの日常を劇的に変えてしまうような人物とのドラマチックな出会いがあるかもしれませんし、ドラススティックな状況や環境の変化、あるいは事件や事故に遭遇してしまうやもしれません。

私達の誰もが、私達本人の認識の有無にかかわらず、もちろん人それぞれその影響力の大きさや範囲の度合いに差こそあれども、第三者や社会に相応の影響を与えつつ存在しています。そしてその私達一人一人個人の影響力は、決して小さなものではありません。

少なくとも最愛の人をはじめ家族や友人達や仕事仲間といった日常の仕事と生活の範囲においては、また時として社会構造を転換させてしまうような、あるいは人類の歴史に大きな足跡を残すような多大な影響を及ぼす場合とてあるでしょう。

ただごく常識的に、自らの意識の上では目立たず差し障りもなく生活しているつもりでいても、気が付かないところで思いも寄らない誰かが想い焦がれてくれていて、仕事も手に付かないあるいは夜も眠れないでいるかもしれません。ーつ間違えばその人は危害を及ぼすストーカーになってしまうやもしれませんし、逆に生涯の伴侶となるやもしれません。結婚当初の幸せが続くかもしれませんし、破局を迎えることになるかもしれません。最初の結婚に失敗しても、二度目に真の幸福を手に入れることができるやもしれませんし、何度も誤ちを繰り返すことになってしまうやもしれません。

また好意を持たれるのとはまったく逆に、自らの預かり知らないところで、また云われのない理由から、第三者に疎まれたり忌み嫌われるような場合とてあるでしょう。

例えば、満員電車内で大汗をかいてしたたる汗を周囲の人達に擦り付けるような、あるいは異臭を放ちながらフケや蚤を落すような人が隣にいたとしたら・・・、それが平気だという人はほとんどいないでしょう。

そんな極端な例を出さずとも、その当事者は意識もしていない、あるいはそれを良しとしている事柄を、感性や価値観の異なる第三者が、不快に感じたり嫌悪感を抱いたりすることは日常茶飯事のことです。

世界的にもほとんど例を見ない、ほんの半世紀の間に劇的な経済発展を遂げ、それに伴い社会・文化構造が急激に多様化複雑化し、常識や価値観を大きく異にしている様々な世代が同時代に同居している私達の国の社会生活においては、そうした他人同志の意見や感覚の相違は一段と生じ易いといえるでしょう。

戦前までの日本も然り、発展途上国を旅してみれば、長い時の流れのなかで営々と変わらず受け継がれてきたある意味完成された伝統的ライフスタイルを発見することができます。

そうした伝統的な社会においては、老若男女問わず同一の価値観に基づいて、それぞれの役割を分担した共同社会が出来上がっており、ルールを冒して村八分にでもされない限りは、社会から脱落する者もなければ飢える者もありません。

数十年どころか数百年もの間、営々と人々が同じ価値観による変わらぬ暮らしを続けていて、お互いを尊重し合い助け合いながら秩序正しく生活している様子を垣間見たりすると、一体何が本当の豊かさなのかと改めて考えさせられます。

以前初めての日本人として訪れたある国の片田舎の、家の中には壁もなければドアもない大きな一部屋に大家族が暮らし、電気もないランプとガスもない薪の火に川の水、山の恵みと畑の野菜、羊を放牧していくつかの家族がまるで一つの大家族のように暮らす小さな村に滞在したことがあります。

その村の撮影も一つの大きな目的でしたから相応の撮影機材を持ち込んではいたのですが、結局私は滞在中にただの一度もレリーズを切ることはありませんでした。何と馬鹿馬鹿しくつまらない行為かと感じていたからでした。

私達の社会の感覚からすれば何もない、そこにはただ人々と日々の暮らし、そして大自然が存在するだけでした。

最初の数日は様々な思索にふけったりもしたのですが、そのうちにもう何も考えなくなってしまい、ただ自家製のワイン(これがまたとびきり美味いのです)やそれをまた何度か蒸留してつくる水で割ると白濁する強い酒を飲み、不恰好な素朴な味の野菜や新鮮なフルーツを食べ、湖で泳ぎ、森できのこ狩りをし、夜は時々羊を焼いて踊り、疲れ果てて降り注ぐほどの満点の星空の下で深く眠るのです。

すっかり溶け込んでしまったそんな村から街に戻り、そしてその国からトランジットを重ねて日本に戻ってくる過程は、まるで文明をタイムマシンで辿るかのような道すがらでした。

成田からのライナーで新宿の雑踏に立った時には、眩暈を起こしてその場に倒れ込んでしまいそうな虚脱感に包まれた感覚を今でもよく覚えています。

世界は広く、様々な人達が様々な価値観により様々なスタイルで暮らしています。そしてそれぞれの様々な人々の在り様が交錯し重なり、時を経て伝統となり、様々な文化と社会を創り、やがてたくさんの国家を形成していきます。

多くの人々の在り様が長い時を経て蓄積され生まれた文化や社会には、相応の絶対的かつ圧倒的な存在感の重みがあります。歴史的な建造物など物質的遺産や伝統的な風習も、そしてそれぞれの国の現状の常識も、長い間の多くの人々の試行錯誤の積み重ねによって形成されてきたわけですから、いつの時代にもどの国においても新しい価値観を創造していくことは並大抵のことではありません。

ともすれば常識の枠に完全に囚われてしまい、日常の生活に埋没してしまいがちな自我という窮極の個性と正反する第三者ひいては社会との調和をはかっていくことは、人生の目的と言えるほどなかなかに困難なものです。

興るものは亡びます。永続的な存在も何一つとしてありません。そしてまた、必然的にどんな存在の在り様も常に変遷していきます。過ぎ去った在り様にしがみついても、私達自身も私達の社会も変遷しているのですから、常に新たな在り様が求められ続けることになります。

私達の日本は、既に転換期にさしかかって久しい状況です。時代が転換する時には、必然的にそれまでの時代に適合していた社会構造も転換していかざるをえません。

しかし、転換を余儀なくされている状況において、それまでの方向性や方法論にしがみついていたのではまったくらちがあきません。

これまでの経緯や現状を頭ごなしに否定するのではありません。それらの延長上に新たな視点や価値を付加していくことです。否定はさらなる否定につながるだけで、何らの新たな価値の創造にもつながってはいきません。

すべての存在の在り様については、常に原因と現状に至るまでの経緯がありますし、それを無視して現状の在り様に対してのみ何らかの判断や評価をすることは、ほとんど意味をなさない行為であると言えます。

さらに言及すれば、すべての存在は、それぞれの存在なりの固有の価値観に基づいてあるがままに許容されるべきであり、第三者の異なる独自の価値観に基づいて一方的な判断を下されるべきものではありません。

但し、ここでいうところのあるがままに許容されるべきすべての存在とは、同様に他の存在も否定しない在り様を前提としていることは言うまでもありません。

例えば破壊や殺人・・・、第三者の存在を完全に否定してしまうこうした行為は、私達の社会におけるいかなる場面においても肯定されるべきものではありません。しかし、頭ごなしに否定していたところで、何らの解決にもさらには防止にもつながってはいきません。そうした回避すべき悲惨な結果に至る原因と経過を把握し、抜本的に問題解決をしていくことこそが重要なのです。

私達の多くが陥り易い過ち・・・、それは自らの存在やその在り様を許容してくれる、さらには評価してくれる第三者の存在や客体的な尺度を良しとしてしまいがちなことです。こうした過ちを犯さないためには、何より自らの絶対的価値基準を養うことなのですが、これは何度も言及するようになかなかに困難なことなのです。

 

→第12号 巡り巡ってまたふりだしに・続編3/巡り巡る・その3 に続く

 


≪EPISODE≫


上記コラムが長編に及びましたので、エピソードは次号に順延させていただきます。

 

CoolShot #11/ 2003.01.04
Title / The Shadow of A Lonely Man

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