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●○●第12号●○●
巡り巡ってまたふりだしに・続編3/巡り巡る・その3
→下記EPISODEが長編に及びましたので、エピソードは次号に順延させていただきます。
≪EPISODE≫
▼Series (2) 〜日常の風景〜
>file#2-7 自分を信じる人だけが救われる Vol.7/四十にして立てるか・・・
先日ネットで調ベ物をしていたところ、古い友人のウェブサイ卜をたまたま見付けました。
彼は大学時代の同級で、よく言えば孤高というのでしょうか、大学ではありがちなあまり仲間と群れたりもしない、学資を稼ぐためのアルバイトが忙しく休みも多かったのですが、勉学には真面目に取り組んでいた、物静かなしかし芯はとても強い人物でした。
私も親友というほどではなかったのですが、彼とは馬が合うところがあって、当時の時間と空間の多くを共有していたのですが、私が中途退学してしまってからは今日まで一度も会ってはいません。
当時彼が語っていた方向性からは若干ずれてきているようでしたが、彼のウェブサイトからは懐かしい当時の彼の変わらぬ人となりや着実なその後の歩みを感じてとることができて、とても嬉しく勇気付けられた気がしました。
かといって私は、彼にメールを出してみるわけでもなく、彼のサイトをブックマークしたわけでもありません。これまで同窓会といった類の集まりにも、一度も出席したことがありませんし、冠婚葬祭などにもほとんど顔を出しません。
何も私が自ら進んでアクションを起こさなくとも、出会うべき人には出会うベくして、また再会すベき人には再会すべき時に、自ずと必然的な出会いが訪れるものです。したがって、普段から特定の人との定期的なやリとりを心がけて継続するとか、年賀状のような時節の儀礼であるとか、そうした常識的行いは、私の日常にはほとんど存在していません。
お互いをまだよく知らない、信頼関係を深めつつあるような段階でならば、あるいは仕事上の必要に迫られてというのであればともかくして、心から好意を抱き合う者同志の間に、あるいは深い信頼で結ばれた者同志の間で、そのような儀礼が果たして必要なのでしょうか。
私にとってかけがえのない心寄せる、あるいは心から信頼できる相手であれば、何らかの形で元気でいてくれることが判りさえすれば満足できてしまいます。もちろん時々会いたいくらいの気持ちにはなりますが・・・。
それにしても、私の年齢くらいになってくると、期せずして古き良き友たちの消息を知るような機会が増えてきたように思います。
先頃別の古い友人は、小説を出版していました。それもたまたま書店で平積みされているのを見つけて知りました。
また取引先との打ち合わせの帰りにたまたま通りがかった画廊で、また別の友人が個展を開いていたこともありました。
著名度の高い頻繁にメディアに登場する友人達はともかくとしても、たまたまのテレビ番組で、懐かしい顔をコメンテイターやら取材の対象などとして見かけたり、仕事ぶりや受賞のニュースが新聞や雑誌の特集などに取り上げられていたり、彼等の何らかの作品や実績を通して近況を知るなどという機会が、昨今とみに目だつようになりました。
孔子は、「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う(したがう)。七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」と、その晩年に自らの生涯をこう振り返ったと云われます。私達常人にとっては、なかなかに及び難い人生の在り方や境地をよく表した歴史に残る名文だと思いますし、私は初めて漢文の授業で触れた若かりし頃から、ずっとこの文言を漠然と自らの指標の一つにしてきました。
十五歳の頃、武家に生まれた孔子は、武芸にではなく学問に生きるという決心をします。
その後様々に学び経験し試行錯誤を重ねていったのでしょう。そして三十歳の頃、独立の立場を持って、志を固く守って行けるようになります。
四十歳の頃、物事の道理がはっきりと解り、自らの在り様に疑問や迷いを抱かないようになります。
五十歳の頃、天命つまり人間の力を超えたままならない運命を自覚し、それを主体的に受け止めることができるようになります。
六十歳の頃、人の言葉が素直に聞けるようになり、そして七十歳の頃、自らが思うままに振る舞って、それで道を外れることがないようになります。それは自我という窮極の個性と、正反する社会性との内外における完全な一致という人としての在り様の境地を表わしています。
私もはや四十三歳になりましたが、この孔子になぞらえれば、「四十にして惑わず」の時期にさしかかりました。同年代の友人達の多くも、このくらいの年齢になってようやく迷いから脱却し、自我を確立して社会への積極的な主張を始めていく頃なのでしょう。
私自身になぞらえてみると、私も十五の頃初めて自らの志を立てました。
自ら言及するのもおこがましいのですが、ここではできる限り率直かつ赤裸々に・・・。
私は幼少期から周囲のリーダー格的存在でした。近所の子供達を引き連れて大人の目を盗んでは禁断の場所を探検したり、秘密の基地を作ったり・・・、誰もが同様かと思いますが、この頃は何物にも囚われず心のおもむくままに、そして持てるすべてを使い切ってその日その日を過ごしていました。
その頃から就寝前にほぼ毎晩母が枕元で様々な童話を読んでくれたことで、様々なイマジネーションが広がったり、小学校に入る頃には既に一般的な漢字も含めて習得できていましたし、内面的には幼い頃から相当にませた子供だったと思います。
小学校では6年間前期後期を通してクラス委員でしたし、6年間の学芸会では常に主役を務め、成績もほぼ常にオール5、6年の初めに一度転校したのですが、新しい学校でもすぐに中心的ポジションを獲得してしまうような可愛い気のない少年でした。
中学校に入る際にも、当時まだ地元の公立中学は男子全員丸刈りというのがどうしても許容できず、中学・高校6年一括教育の私立中学に入試をしてまで入学し、片道約2時間を要する遠距離通学をしていました。
中学に入っても、小学校からの延長での私のリーダーシップにはさらに磨きがかかり、それは中学三年の生徒会長になった頃まで続いていきました。両親や親戚、近所の人々、友人や教師など、誰からも一目を置かれる存在でした。
当時既に私にはどこそこの進学高校に転学して、またどこそこの然るべき大学に入り、外交官になって・・・云々などという人生設計のイメージが固まっていて、周囲もそれを支援してくれるような環境も整っていました。
そんなそれまでの優等生としての周囲の期待に応えるような15年間を、ことごとく一新してしまうような出来事が突然起こります。それは、ある一人の少女との出会いでした。それからの私の人生を決定付けてしまうかのような彼女との私にとっては初恋、彼女自身に対してももちろんのこと、正確には彼女のお兄さんという絶対的な存在からも語り尽くせない大きな影響を受けることになりました。
彼女は実のお兄さんを心から愛していました。それ故に想いを寄せる私の存在を認めてくれてはいましたが、私を心から受け入れてくれることはその後もありませんでした。
私は中学校三年の後期に生徒会長になったのですが、立候補前に自ら立てた公約の一つに基づき、それまでほとんど生徒レベルの主体的交流のなかった近隣他校との積極的な交流を図るため、各校の生徒会に申し入れをして訪問を重ねていた時に、初めて私は彼女に出会いました。
彼女は市内のやはり6年一括教育の女子高の生徒で、生徒会の書記のうちの一人だったのです。
生徒会の役員をしていたほどですから、活発な明るい少女かと思いきや、ほとんど自ら口を開くこともなく、笑顔すらもほとんど見せない、どちらかといえば暗く大人びたイメージの少女でした。
私は初対面の双方の役員の紹介の際に、もはや目を逸らせないほど端正で美しい彼女の伏し目がちな表情の虜になってしまい、それからはもう寝ても覚めても彼女への抑えきれない感情に支配されてしまう日々が続きました。
男子校であったことを差し引いても、私は異性に関しては相当な晩熟(おくて)でした。それまで異性との交際経験もなければ、見ず知らずの通りすがりの女性に対してすらも異様に意識をして顔を紅潮させてしまうほど、その頃唐突に訪れた性の目覚めの時期を、際限のない妄想と持て余す急速なフィジカルな成長に翻弄される日々を過ごしていたのです。
生徒会の活動というような大義名分があれば、少なくとも相手には悟られない程度には、ごく普通に異性とも接していられたと思います。しかし、当時の私の頭の中は、妄想や羞恥心といったあらゆるとりとめもなく抑えきれない感情が常に渦巻いていました。もう一生異性と交際したり結婚したりなどとてもできないのではないかと、当時の私は真剣に深刻に悩んだものでした。
彼女はまるで女神のような、当時の私はまさに運命の女性だと思い込んでいましたから、表面的にはそつなく学業や生徒会の活動などをこなしながらも、頭の中では彼女のことばかりに終始していました。
当時の生徒会長としての立場を最大限に活用し、私の関心は彼女に如何に近付きそして獲得するか、そのことだけに全身全霊が注がれていたのです。
まずは、将を射んと欲すればで、周囲の取り巻き達の懐柔策に出たのですが、彼女は物静かな陰のリーダーといった存在で、取り巻き達も大げさに言えば崇拝しているかのように、そして私を含めて外部の様々な悪の虫どもから身を持って彼女を護るといったような鉄壁のディフェンスが敷かれていて、まさに難攻不落の状況だったのです。
後で判ったことですが、彼女の美貌は有名で、芸能界入りを様々なプロダクションからも周囲も嘱望していたようですし、また才色兼備、彼女は全国模擬試験では常時トップ5に入るほどに成績もずば抜けていたのです。それでも目だつことを嫌い、特定の友人すら持たないミステリアスな彼女は、誰もが認める特別な存在だったのです。
周囲の取り巻き達からの懐柔をと、何らか名目を作っては彼女に近付こうとしていたのですが、彼女を私を含めた当時の大勢の悪い虫どもから護ろうとするディフェンスは非常に強固で、様々な私の試みはことごとく阻まれてしまいました。
もっとも、後で判ったことでしたが、取り巻き達がどのように考えて動こうとも、彼女自身はその取り巻き達にすらも無関心だったわけですし、そういう意味では私の将を射んと欲すれば作戦自体が、そもそも的外れだったわけです。
そんな焦点のずれた無意味な作戦に数ヶ月を費やし、私が彼女への直球勝負に出たのは、もう生徒会長の任期も終わる頃になってからでした。
それからは毎日のように彼女を下校時に待ったり、手紙やら電話やらと、彼女が呆れ返ってしまうほどに、そしてもう取り巻き達にも私の彼女への熱烈な想いは認知され許容されるところとなっていきました。そして、私自身が自らに驚きつつも、決してあきらめることなく彼女につきまとい続けているうちに、彼女のお兄さんがだんだんと応援してくれるようになっていったのです。
彼女はお兄さんを心から愛していましたから、初めは彼から言われてしぶしぶという感がありましたが、それでも私を次第に受け入れてくれるようになっていきました。受け入れてくれるようになったといえども、それはただ彼女が口を利いてくれるようになって、時折笑顔も見せてくれるようになったというくらいのもので、燃え上がった私の想いを受け止めてくれたわけではありません。
それでも私は、毎日のように彼女宅に入り浸って、夕食をご馳走になり、夜になってから自宅に戻るというスタイルを定着させてしまい、彼女の家族はもちろんのこと、彼女自身にも私の存在を日常化してしまうまでになっていったのです。
彼女の父親は、総合商社の重役だったのですが、ほとんど家庭を顧みないような仕事の虫で、毎日彼女宅にいた私も、ほんの数えるほどにしか顔を合わせたことはありませんでした。
母親は、ジュエリーショップチェーンを経営していたのですが、夜は大抵帰宅はしても、食事はほぼ毎日外で済ませてきていましたし、家事というものがまったくできない人で、住み込みの家政婦が家庭内のすべてをとりしきっていました。
そんな家庭環境も影響して、幼い頃からお兄さんと二人だけで食事をしてきた彼女にとって、私は邪魔な存在ではなかったと思います。
実際両親には内緒で家政婦に時々ゆっくり休んでもらっては、彼女とお兄さんと私で一緒に料理をしたりもしたものでした。そんな彼女にとってお兄さんは、もちろん兄であり、父親であり、母親でもあり、そして・・・。事実お兄さんは、彼女のことを本当に可愛がっていましたし、彼女もお兄さんにいつも付いて回っていて、お兄さんの友人達がイコール彼女の交友範囲でしたし、そういう意味でも只一人彼女と同年代の私は特異な存在でした。
彼女のお兄さんは、当時国立の大学院に籍を置いて、宗教の研究をしながら、小説や詩を書いたり、絵を描いたり、翻訳をしたりと、いろいろな仕事をしていました。世俗の塵埃から離れ飄々とした独特な雰囲気のある人物で、そんな彼の周りにはどこか浮世離れをした不思議な人達が集まっていました。
彼女の自宅は、迷子になってしまうほど部屋数のある大邸宅でしたし、両親もほとんどいないような状況でしたから、私同様にいつも誰かお兄さんの友人達が入れ替わり立ち代わり入り浸っているような状態で、5〜10歳ほども年上の彼等とばかり付き合っていた彼女の精神構造が、同年代の私達とは隔絶した基準に飛んでしまうのも、必然といえば必然だったのでしょう。お兄さんの友人達と接するうちに、私はだんだんと彼女への理解を深めていくことができたように思います。
お兄さんと友人達そして彼女が日常的に交わしていた会話のほとんどは、当時の私にはその場にいてもほとんど理解の範囲を超えていました。
宇宙の起源と本質を地球外知的生命体とその時間軸による空間移動という四次元的視点から考察する云々とか、人は何処からどのように何のために誕生して何処にいくのかとか、聖書の本質とその解釈の視点から考察したキリスト教とイスラム教の差異と優位性や、様々な新興宗教の発祥の背景と経緯について、また実存主義的考察の限界と矛盾について、あるいは人間の様々な欲望の本質とその増長と抑制の許容される限界から分析する現社会構造の形成の起源と過程、ひいては資本主義社会の限界と社会主義の失われた可能性を通して考察する理想の社会構造とは、・・・・・・などなど、いつもこんな調子で、延々と朝方まで議論が続くことも珍しくはありませんでした。
当時は目を丸くしてただ聞き入るばかりの私でしたが、そうした不思議な浮世離れをした人種達の会話や、何より彼らの価値観や生き方が、現在に至るその後の私の人格やライフスタイルの形成に及ぼした様々な影響は、はかりしれなく大きなものがあると感じます。なかでも彼等のリーダー的な存在であった彼女のお兄さんの在り様は、まさに私のルーツといっても過言ではないほど、その後の私の価値観やライフスタイルを一変させてしまったのです。
第13号
▼Series (2) 〜日常の風景〜
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に続く