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MINDSHOOTING ESSAYS -What's Cool Life!?-

バックナンバー 0015

●○●第15号●○●


巡り巡ってまたふりだしに・続編3/巡り巡る・その3


→下記EPISODEが長編に及びましたので、エピソードは次号に順延させていただきます。


≪EPISODE≫

 ▼Series (2)  〜日常の風景〜       
  >file#2-10
  自分を信じる人だけが救われる Vol.10
  /孤高のフォトグラファーとさすらいのブルースシンガー
  /かつての孤高のフォトグラファー ・その2


かつての孤高のフォトグラファー

一つの実例として、まだ二十歳代前半の頃に渡米した際の私の心の琴線を大きく震わせた衝撃的な出会いについて言及したいと思います。

普段から人物や団体あるいは場所などを特定する固有表現は可能な限り避けるように心がけているのですが、ここでは例外としたいと思います。

当時の私の頭の中は、よく言えば想像力に満ち満ちていましたし、実際にはもはや妄想にも近い基準で現実社会や日常の生活との境も希薄となって、鋭敏に研ぎ澄まされた私の感受性は、五感に訴えかけるすべての事象を自らのアートワークというフィルターを通して捉えていたのでした。

大学を中退して自らの方向性と方法論を見失ってしまった私が当時唯一明確に抱くことができた希望、それは物心付いた頃からの様々な強い興味の対象であったアメリカ、というよりもニューヨークに行きたいという衝動でした。

思い立ったら実行あるのみ、それから三ヶ月間昼夜を問わずにアルバイトに明け暮れ、そして私は単身ニューヨークの地に降り立ちました。

深夜にケネディー空港に到着する便でしたから、その夜だけはと日本からホテルを抑えていきました。翌日からまずは寝ぐら探しですが、それから約一年に渡る私の現実は小説より奇なる体験についてはまた別のシリーズで触れることとして、約10日後にやっとの思いでアパートメントを借りることができました。

またすっかりと前置きが長くなってしまいましたが、生活の場を確保できてようやく少し落ち付いたそれからの私が最初に始めたのは、連日のミュージアムとギャラリー巡りでした。

それから数日後に初めてニューヨークの近代美術館を訪れた時のことです。

その時の私の一連の視覚がまるでセピアがかった古いムービーフィルムのように、それでもいまだに私の脳裏には鮮明に焼き付いています。

二階に続く大きな階段を、踊り場で息をついていた老女の手を引いてゆっくりと上がると、右手の最初の常設展ホールに、その壁一面の大きな絵画はかけられていました。

それを最初に目にした瞬間のインパクトの強さ、〈何じゃあこりゃあっっっ!!!???・・・〉、私は心の中で思わず叫び声をあげてしまいました。それがピカソのゲルニカとの衝撃的な初めての出会いでした・・・。

それがゲルニカであることは、すぐ次の瞬間に判りました。書籍などでそれまでに何度も目にして知識としてはあったからです。

たかが絵画です。静かな感動の程度であればそれまでも様々なアートワークから感じとることができた経験はありましたが、後退りをしてしまいそうになるほどの、それもゆっくりと観賞する以前の目にした瞬間にそれだけ強い衝撃を感じたことなど、後にも先にもまったく経験がありません。

ゲルニカとは、北スペインのバスク地方にある小都市の名称です。この町は、バスク人にとって深い意味を持っていました。バスクの人々は中世のはじめからこの町を首都と考え、彼らの独立精神と民主主義の象徴と考えていたのです。

1937年4月26日、独裁者フランコを支持するナチス・ドイツはこの町を爆撃しました。

この作品にはピカソにおける二つの重要な象徴が描かれています。一つは中央の荒れ狂い逃げまどう馬であり、もう一つは画面左上に描かれた虚ろな目をした牡牛です。馬は人民をあらわし、そして牡牛は獣性と暗黒の象徴として描かれています。この二つの動物の対比に、ピカソがこの作品に込めた怒りと悲惨があるわけですが、ただ後にピカソが語っているように、この牡牛はファシズムを象徴しているわけではないようです。だとすればこの作品は、戦争という人間性を抹殺した極限状況における、人間全体の残忍性、恐怖、悲惨さ、虚脱感をあらわしたものであり、我々人類に対するピカソの警告とみることもできます。

スペインに“民主主義”が戻るまでは絵も戻さないーーとピカソが本国返還を拒み続けたゲルニカが、42年間展示されたニューヨーク近代美術館から、マドリードのプラド美術館に空輸されたのは1981年9月のことでした。

ピカソが終生憎んでやまなかったフランコ将軍(スペインの人、ヒトラーと手を組んだ)は、 ピカソが亡くなった2年後の75年に、息を引き取りました。その後、さまざまな混乱はあったものの、 スペインに民主主義が回復していき、それにつれ、ゲルニカの返還も具体化していきました。 結局、ピカソが残した二つの条件、“民主主義が回復した後”と“自分が一時期館長を勤めたプラド美術館に”が尊重されました。

そんなゲルニカ誕生の背景やその後の経緯については、帰国後それも何年も経過してから私は知り及びましたが、アートワークとは本来それ自体で完結しているものですし、私にとってはそうした蘊蓄(うんちく)はどうであれゲルニカは、それから一週間毎日近代美術館に足を運ばせるほどに絶対的な強烈な印象と底知れぬ深遠さを私に与えたのでした。

最初の展示ホールの正面の壁一面のゲルニカを取り囲むようにその展示ホール全体は、どこかの美術学校の生徒達のゲルニカの習作でいっぱいでした。どこがどうしてそんなに違うのかは絵心のない私には解りませんでしたが、数あるどのドローイングを見ても、それらは私には何も感じてとることもできないただのお絵描きにしかすぎませんでした。

独断と偏見に満ちた私のつまらないゲルニカ批評などはここでは割愛します。もう世界中で語り尽くされてきたことですし、そもそも他人の評価など何らの意味も成すものではありませんから・・・。例えば事実直接観賞の経験のある方で、何も感じるところはなかったとか、ピカソが天才などとはまやかしだなどと仰るような方も、私は少なからず知り及んでいますし、それほど人それぞれ感じるところは千差万別なのです。

私が声を大に主張したいのは、まだご覧になっていらっしゃらないスペインにお出かけの方は、ご自身の目と心でご覧になるべきだということだけです。

余談になりますが、ゲルニカとの衝撃的な出会いとは対照的だったのが、ロダンの考える人との出会いでした。

考える人が、ゲルニカと同じ近代美術館にあったのか、それとも後日別の美術館で見たのかは、あまり昔のことなので記憶が定かではありません。広大な美術館でしたから国立美術館だったように思いますが、展示作品を次々と見て回っていた時に、突然目の前に考える人が現れたのでした。

考える人は、ゲルニカを知らない人でも知っている、最近ではCMにも登場していましたし、私が通った小学校の校庭にもレプリカがありましたから、それであることはひと目で判りました。

私の率直な印象は、<これは本物なのだろうか???・・・>ということだけでした。

「天才?そんなものは決してない。ただ勉強です。方法です。不断に計画しているということです。」(ロダン)

そんなスタンスの人物だったようですし、これだけ著名な作品なのですから、おそらく彫像や彫刻という同じ分野の人達の評価が高いのでしょうか・・・、いずれにせよ私には何ら感じるところはありませんでした。

それでもしばらく周りを回りながら鑑賞していたところ、母親に連れられた小学校低学年くらいの男の子という日本人の母子がやってきたのですが、その男の子の「ねえねえママ、ロダンの考える人だよ!ねえ、これって本物なのおっ???」という私とまったく同じ感性と発想の弁に思わず苦笑してしまいました。

ゲルニカとの出会いは、その後の私の人生に、そして今なお大きな影響を与え続けています。

ゲルニカの何たるかでも、その出会いが私に何を及ぼしたのかでもありません。私がゲルニカから確かに受け取った強烈な衝撃と深い感動、一週間毎日通い続けてゲルニカと対話しつつも、私はその根拠を追及しようという気には何故かまったくなりませんでした。ゲルニカを前にして私は、私自身の在り様について、そしてそれからの人生についてただただ熟考を重ねるばかりの日々を過ごしたのでした。

私がゲルニカとの出会いから得たたった一つの本質的かつ普遍的事実、それはアートワークの持ち得る力、つまり見る人の心の琴線をここまで大きく打ち震わせ、そして奥底に眠っているそれぞれの何かを揺り動かすことができるのだという確かな可能性でした。

その後また数日ニューヨークの美術館・ギャラリー巡りを続けるものの、ゲルニカとの出会いのあまりに強烈な衝撃の余韻がズルズルと後を引いて、私の心の奥深い部分に薄く固く張り付く粘土のように巣食ってしまい、ずっしりどんよりとした虚脱感に支配されてしまっていました。

そんな私にナチュラルに生じてきた感覚・・・、それはヨーコに会いたいという静かな衝動でした。亡きジョン・レノンの未亡人のオノ・ヨーコです。

特別に意図して探したわけではなく、たまたまだったのですが、私が借りたアパートメントは、セントラルパークウエストのジョン・レノンが凶弾に倒れた自宅アパートメント”ダコタ”からほんの2ブロック徒歩数分のコロンバスアベニューにあったのでした。

それから私は毎日午後から夕方にかけての数時間を、ダコタ全体を見渡せる通りを挟んだ向かい側の建物のへりに腰をおろして過ごしました。夕方になるとセントラルパークを散歩したり、様々なショップを覗いたりしながら、決まって行き付けの何軒かのシングルスバーのいずれかに寄ってアパートに帰るのが日課になっていきました。

ジョン・レノンが悲業の死を遂げたのは、私が渡米する数ヶ月前のことでした。

特別に彼のファンであったというわけでもなかったのですが、中学時代に初めて触れた洋楽がビートルズでしたし、すべてのアルバムを揃えるほどにはすっかりと傾倒した時期もありましたし、それ以降大学に入るまではポップス一辺倒で邦楽はまったく聞きませんでしたから、それなりに影響も受けたのでしょう。

私は解散してからのビートルズファンでしたが、解散後のメンバーのそれぞれの活動にはあまり興味が持てませんでした。ポール・マッカートニーとウイングスのアルバムを一枚持っていたくらいで、私が傾倒したのはあくまでビートルズとしてのナンバーであって、ジョン・レノンをはじめ彼等自身に対してではなかったのです。

それでも唐突な、それも愛と平和を謳い続けた彼の皮肉にも凶弾に倒れての死は、熱烈なファンのみならずもちろん私も含めて、広く世界に衝撃と深い悲しみを与えました。

その悲報を、私は当時よく通った渋谷のバーで聞きました。やはりビートルズファンだったマスターは、その夜は追悼のビートルズナンバーを延々とかけつづけ、バーを閉めてその夜その場のすべての客のチャージをフリーにしてしまいました。客の中には感極まって泣き出す人達もいて、期せずしてジョン・レノンの通夜となってしまったのでした。

ジョン・レノンのドラマティックなまでの悲報は、そんなとある国のとある街の小さなバーに至るまで世界中を駆け抜け、数知れない多くの人々が余韻に浸ってそれからしばらくの間思い思いのそれぞれのスタイルで喪に伏したのでした。

彼女に会ってどうするなどとはまったく考えてもいませんでした。そのうちに何時の間にか彼女に会いたいという目的も忘れて、ただ私は馴染みのカフェでぼんやりと考え事をして時を過ごす感覚で毎日ダコタ前の決まった場所で何時間かの時を過ごしていました。

ジョン・レノンの死後まだ数ヶ月ということもあってか、毎日大勢の人達が花や祈りを捧げたり、写真をとったりと、ダコタ前はほぼ終日賑わっていました。一般の車も徐行したり停止したりするばかりか、非常識にも観光バスまでも一時停止したりするので、交通にも支障をきたしていました。警官だけでなく、もうすっかりと有名人になってしまっていたダコタのドアーマンも、人の整理や案内にあけくれている様子を、ぼんやりと通りの向かい側から眺めては漫然と物思いにふけったものでした。

ダコタ前に毎日通ったのは10日前後でしたが、結局ヨーコの姿を見かけることはありませんでした。そもそもそんなところに彼女が出てくるわけもないのですが・・・。

それにしても普段ではあまり感じないものですが、影響力のあるアーティストが亡くなったりすると、彼等の存在の大きさが改めて認識できることがあります。

国内においても、尾崎豊や元X JAPANのhideが亡くなった際の、そしてまたその後の多くの彼等のファン達の動静が、私の印象には強く残っています。通夜や告別式に全国から多くの人達が集まったり、追悼の様々な集会や催しが開かれたり、それから何年経過しようとも未だ多くの人達の心に残り、毎年命日近くになれば様々なイベントがあちらこちらで持たれます。ジョン・レノンも、そして尾崎豊やhideも、亡くなってもいつまでも多くの人達の心に生き続けているのです。

第三者の心の中に生き続ける・・・、これは何も彼らのような特別な著名人に限ったことではありません。想う人達の数の差だけの問題であって、愛した伴侶をはじめ家族や友人が亡くなるような場合においても同様でしょう。

私も心から愛した女性を5年前に亡くしましたが、彼女は以来私の心の中に棲み続け、もはや私の一部として同化してしまっています。先月また命日が来たのですが、ピクニック気分で恒例の墓参りを済ませてきました。彼女の亡くなり方の問題で命日がはっきりしないこともあって、私はたまたま同じ月の彼女の誕生日の日に毎年出かけています。毎日どこででも彼女と私は一緒ですから、墓参りの必然性も私自身は感じてはいないのですが、それでもこの習慣はおそらく生涯にわたって続けていくことになるような気がしています。

私がピカソのゲルニカとの出会いから得たたった一つの本質的かつ普遍的事実、それはアートワークの持ち得る力、つまり見る人の心の琴線をここまで大きく打ち震わせ、そして奥底に眠っているそれぞれの何かを揺り動かすことができるのだという確かな可能性でありその驚きです。

ジョンレノンから得たのは、彼の生き方を通して自らの在り様を深く考察し、彼の様々な作品をただ楽しみ、そして時にはまた心動かされ、私の人生におけるその時々の出来事とそれぞれの曲が重ねって胸に残る数々の想い出であり、さらに今なお、またおそらくこれからも彼のナンバーを聴き続ける私にまた新たな想い出を刻んでいってくれることでしょう。

私はそれが心から素晴らしいと感じたものですし、そんな経験から創作活動とそれを見知らぬ人々に伝えるメディアの世界に身を置く強い決意を、あの日ダコタの前で固めたのでした。

それから私の長い旅が始まり、そしてその終わりのない旅は私の命のある限りこれからも続いていくものと思います。

これまでの旅の道すがら、様々な人達に出会いそして別れました。それらの出会いと別れの中からかけがえのない心から愛する人達にも出会うことができました。そしてまた新たな出会いと別れの日々がこれからも続いていく過程で、私は愛すべきかけがえのない人達を探し続けていくことでしょう。

私にとってはそれが生きていくということであり、また私を探し続ける未だ出会うことのない人達に向けて、こんな私はここにいるというメッセージを送り続けること、また既に出会うことのできた親愛なる友人達に向けて、近頃私はこんなことをしながら元気でいるよとメッセージを送り続けること・・・、それが私にとっての創作活動でありまたメディアなのです。

かつての孤高のフォトグラファーの存在と彼の預かり知らないところでの私の側からだけの一方的な彼との関わりに代表されるように、メディアを通して知り得る第三者との出会いならびに彼等の在り様は、私にとっては実際に彼等に出会うことと限りなく同義なのです。

持って回った表現になってしまいましたが、これは、実際のところは私に限らず世間の誰もが日常的にごく自然に繰り返していることと何らの違いもないことなのです。

人は誰も、TVや映画あるいは好きな作家やアーティストの作品を単純に楽しみ、心動かされ、そして時にはそれからの人生の指針としたり、さらにはそれまでの人生観を根本から変えてしまったりなどと、意識のあるなしにかかわらずその時々に様々な影響を受けているものです。

それら人の心の琴線を打ち震わせ、人に大小様々な影響を及ぼし得るすべての事象の総称、それがアートあるいはアートワークの本質であると私は考えています。

したがって、それは絵画や写真や楽曲などの作品に限ったことではなく、それらを創作するアーティスト自身でもあり、彼等の思想や生き様でもあります。またアーティストとアートワークが直結しない場合、例えば作品を世に出さないまま、あるいは評価を受けないままにこの世を去るアーティストも少なくないばかりか圧倒的多数でしょうし、事実死後長い月日を経た後に初めて評価を受けることも、まったく珍しいことではありません。

また自ら納得する作品をまだ世に出す前のアーティストの卵達のケースも同様です。明日あるいは数年後に作品を世に問おうとする彼らの思索と研鑚の日々の在り様が、既に世間の評価を手にしたアーティスト達にも増して彼らを知る周囲の人達の心の琴線を大きく打ち奮わせる場合とてあるでしょうし、卵達であるどころか埋もれた逸材であるかもしれません.

著名なアーティストといえども、アートワークの出来不出来は必ずありますし、そもそもアーティストとアートワークは、必ずしも結び付くものではありません。しかし不出来なアートワークを世に出さないことで、自らのアートワークのクオリティーの基準を保つことはできるのですから、自らへの評価を維持するも落すも上げるも、結局はアーティスト自身のプライドの問題であるといえます。

そういう意味でも、かつての孤高のフォトグラファー自身にとって今回の写真展で発表した作品がどのような納得の基準に位置するものであったのかは知る由もありませんが、少なくとも私にはプライドを棄てたとしか映らなかった彼というこれまでの大きな存在が、私の中ではすでに忘却のかなたに消え去りつつあることはもはや否定し難いところです。

ジョン・レノンと同様に、私はかつての孤高のフォトグラファー自身に対してではなく(私は彼という人物を知らないのですし・・・)、彼の作品とこれまでの創作活動の在り様に対して傾倒してきたのですし、私にとってはメディアを通して窺い知ることだけが彼としての存在のすべてだったのですから・・・。

 

第16号
 ▼Series (2)  〜日常の風景〜       
  >file#2-11
  自分を信じる人だけが救われる Vol.11
  /孤高のフォトグラファーとさすらいのブルースシンガー
  /さすらいのブルースシンガー
                      に続く

 

CoolShot #15/ 2003.08.30
Title / At Dusk

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